なぜ日本だけ横手の急須なのか?湯沸かしから生まれた日本独自の茶器

なぜ日本だけ、横手茶器の急須で茶を淹れるのか?

欧米のティーポットや中国の茶壺は、注ぎ口の反対側に輪状の持ち手が付いた「後手」が一般的です。

一方、日本の急須は、注ぎ口の横に持ち手が付いた「横手」が広く普及しています。茶文化は中国から伝わったにもかかわらず、なぜ日本では独自の形の急須が定着したのでしょうか。

結論からいうと、日本の横手急須は、中国南方で使われていた横手の湯沸かし「急焼」を茶器として転用したことから生まれました。その後、売茶翁らが煎茶文化の中で広め、日本の陶工が茶を淹れる専用の道具へと改良したことで、現在の横手急須へ発展したと考えられています。

では、なぜ日本だけ横手急須が一般的になったのでしょうか。今回はその謎に迫ってみました。

目次

急須はどこからやってきた?ルーツは中国の湯沸かし

色絵花鳥文急須(江戸時代、尾形周平)
色絵花鳥文急須(江戸時代、尾形周平 作。東京国立博物館)

茶文化は中国から伝来したものですが、中国の急須「茶壺(ちゃふー)」は後手型です。

中国を代表する茶器といえば、江蘇省宜興の紫砂壺が有名です。宜興(イーシン)の名から「イーシン・ティーポット(Yixing teapot」という名で世界中で愛用されており、中国茶器の代表格となっています。

ヨーロッパへ茶文化が広まった際も、この中国の茶壺の形がそのまま受け継がれ、現在のティーポットの原型になりました。

中国と日本、茶器の形状の違い

中国の茶壺。持ち手は注ぎ口と一直線上にある(後手)。紅茶のティーポットも、茶壺に順ずる形。
中国の茶壺。持ち手は注ぎ口と一直線上にある(後手)。紅茶のティーポットも、茶壺に順ずる形。

中国でも日本でも、お茶を淹れる器には注ぎ口が付いています。しかし、持ち手の位置には大きな違いがあります。

急須の持ち手の形状 説明主な例
横手(よこで)注ぎ口の横に、棒状の持ち手が横につく。日本の急須
後手(うしろで・あとで)注ぎ口の反対側に、輪状の持ち手がつく。中国の茶壺
欧米のティーポット
上手(うわで)茶器の上部に輪の持ち手がつく。土瓶

室町時代以降、中国の茶壺は日本にも輸入され、煎茶道では「茶銚(ちゃちょう)」「茶注(ちゃちゅう)」などと呼ばれました。

しかし、日本で広く普及したのは、これとは異なる横手型の急須です。

では、横手型の急須は、どこから日本にやってきたのか?その起源については諸説ありますが、中国南方で使われていた横手の湯沸かし「急焼」「急須」が、日本で茶器へ転用されたことが大きなきっかけと考えられています。

そのルーツを辿った所、どうやら中国南部の酒や湯を温めるための道具「急焼」「急須」からきているようです。

宋代の漢詩に現れる「急須」

「急須」という言葉は、宋代の文人・黄裳(1044〜1130)の漢詩『龍鳳茶寄照学禅師』にも登場します。

龍鳳茶寄照学禅師

 有物吞食月輪盡 鳳翥龍驤紫光隠
 雨前已見纖雲從 雪意猶在渾淪中
 忽带天香墮吾篋 自有同幹欣相逢
 寄向仙廬引飛瀑 一簇蠅聲急須腹(自注:急須、東南之茶器
 禪翁初起宴坐間 接見陶公方解顔
 頤指長鬚運金碾 未白眉毛且須轉
 爲我對啜延高談 亦使色味超塵凡。
 破悶通靈此何取 兩腋風生豈須御。
 昔云木馬能嘶風 今看茶龍解(四庫本作堪)行雨

演山集 巻一(黄裳)

「龍鳳茶寄照学禅師に「仙廬に向かい寄りて飛瀑を引き、一簇の蠅が急須の腹を声する」とあり、黄裳自身の注釈には「急須とは東南地方の茶器である」と記されています。

ただし、この「急須」が現在のように茶葉を抽出する急須だったのか、それとも湯沸かしや別の注器だったのかは明確ではありません。研究者の間でも解釈が分かれており、現在の急須と同一視することはできません。

黄裳は福建省の出身で、この詩は照覚禅師に「龍鳳茶」を送った時のものです。

詩中にある「蝿声(ようせい)」とは、湯が沸く音を蝿の羽音にたとえた表現です。「急須の腹から蝿声がする」という描写から、この器は直火にかけて使う湯沸かしだった可能性が高いと考えられています。また、ここで贈られた「龍鳳茶」は、団茶(固形茶)を砕いて粉末にし、お湯を加えて茶筅で点てる宋代の茶です。

中国南方の酒や湯を温める器「急焼」「急須」

古代中国の酒器「螭紋鐎」(ちもんしょう)
古代中国の酒器「螭紋鐎」(ちもんしょう)。鐎斗(しょうと)、盉(か)とも呼ぶ。(前漢時代。国立故宮博物院@台湾 所蔵)。
礼器の土器を模倣して作られた。酒を温めるための器。急須によく似た形だが、直火にあてるため底に足がついている。

中国南方、特に福建地方では、古くから酒や湯を温めるための横手の注器が使われていました。

これらは「急焼(きゅうしょう・きびしょう)」あるいは「急須」と呼ばれていたと考えられています。「焼」は「湯を沸かす」という意味を持ち、福建語では「キプス(キプシュ)」に近い発音で呼ばれていたとされます。

この時代の急須は、注ぎ口の付いた小さな鍋・壺の形をしていました。薬を煎じたり粥を炊いたりする他、急な来客などの時、酒の燗や湯沸かしに便利な道具として、用いられたのでしょう。

唐の時代の茶器(台湾の国立故宮博物院の所蔵品)。
唐の時代の茶器(台湾の国立故宮博物院の所蔵品)。

急須という名前の由来

唐の時代の「長沙窯 緑釉箪柄壺」(618-907年、台湾の国立故宮博物院の所蔵品)。
唐の時代の「長沙窯 緑釉箪柄壺」(618-907年、台湾の国立故宮博物院の所蔵品)。

明代の都卬が著した『三余贅筆』には、「呉人は酒を温める器を急須と呼ぶ。急須とは、急な用に応じて用いる器という意味である」と説明されています。

つまり、「急須」という名称は「急なときにすぐ使える器」という実用性に由来すると説明されています。

もっとも、これは『三余贅筆』に記された語源説であり、そのまま歴史的事実と断定できるわけではありません。しかし、「急須」という言葉が、もともと茶器ではなく酒燗器や湯沸かしを指していたことを知るうえで、重要な資料となっています。また、『大漢和辞典』でも「急須」には次の二つの意味が掲載されています。

急 須
(1)酒を燗する薄い鍋。須は用。急場の時に用ひるものといふ義。
   〈三余賛筆〉呉人呼二暖レ酒器一為二急須一、急須者、以二其応レ急而用一也。

(2)茶を煎じ出す小さい土瓶。きびしょ。

大漢和辞典

日本に伝わった「急焼」と「急須」

「煎茶訣」上巻(深田精一、嘉永2年、11P)の「きびしょう」の章。
煎茶訣」上巻(深田精一、嘉永2年、11P)の「きびしょう」の章。急須・茶注・湯銚・茗瓶など多種多様な名称が掲載されている
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

江戸時代、中国から伝わった横手の湯沸かしは、日本ではさまざまな表記で呼ばれていました。

『煎茶訣』(深田精一、嘉永2年)にも、「きびしょう」の項目が設けられ、「急須」「茶注」「湯銚」「茗瓶「茗壺」など多くの呼称が紹介されています。当時は名称が統一されていなかったのですね。

やがて「急須(きゅうす)」という呼び名が一般化し、現在まで受け継がれるようになります。

急焼・ 急火焼(急尾焼・急備焼)・ 急須  → 急須

きゅうしょう・きびしょう・きふす    → きゅうす

言葉の変遷をたどると、日本独自の茶文化が形成される過程で、呼び名も少しずつ整理されていったことがうかがえます。

湯沸かしを茶道具に転用

涼炉とボーフラ
白泥のボーフラ。素焼きで横手の物が多い。

中国から伝わった急焼は、煎茶道で使われる「ボーフラ(湯沸・湯罐・湯瓶・湯銚)」とほぼ同じ系統の器と考えられています。もともとは酒や湯を温めるための道具であり、現在の急須のような茶こしは付いていませんでした。

素焼きで作られ、涼炉(りょうろ)の上に載せて直火で湯を沸かします。つまり、本来は「茶を淹れる器」ではなく、「湯を沸かす器」だったのです。

ところが日本では、この横手の湯沸かしを茶器として利用する文化が生まれました。茶器として転用されたことで、横手という形がそのまま受け継がれ、日本独自の急須へと発展していきます。

なぜ湯沸かしで茶を淹れるようになったのか?

諸道聴耳世間猿
涼炉にボーフラで湯を沸かす図。「諸道聴耳世間猿」より(上田秋成 著、1839年)※出典:国立国会図書館デジタルコレクション

急須を使って茶を淹れる方法は、江戸時代初期、中国から伝わった煎茶文化とともに広まりました。その普及に大きな役割を果たした人物が、煎茶の祖として知られる売茶翁(高遊外)です。

田能村竹田の『石山斎茶具図譜』には、次のような記述があります。

本邦飲茶の行わるや久し。近日用うる所の葉茶は、相伝う僧隠元の将来せりと。未だ知らず果たして然るや否やを。その風炉、急尾焼を用いて、烹茶飲啜するに至っては、遊外高翁より始る

石山斎茶節図譜(田能村竹田、1831年)

この記述は、「風炉と急尾焼を用いた喫茶法は売茶翁から始まった」と伝えています。ただし、これを歴史的事実として断定することはできません。

真相は分かりませんが、長崎で煎茶を学んだ際、唐人屋敷や渡来僧のいる寺院や、萬福寺に逗留した際に、この茶の淹れ方に接したことがあったのかもしれません。

近年では、黄檗宗の僧侶や中国から渡来した人々の間で、売茶翁以前から同様の方法が行われていた可能性も指摘されています。そのため、売茶翁は「急焼を用いる煎茶文化を広く普及させた人物」と考えるのが現在の研究により近い理解でしょう。

売茶翁が広めた横手急須

売茶翁形急須(陶製)
焼締李仲芳写茶銚(売茶翁形急須。江戸時代。李仲芳:方印、木米:小判形印)※出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/

なお、売茶翁は急須を発明した人物ではありません。

しかし、中国由来の横手の急焼を茶器として広く普及させたことで、日本の急須文化に大きな影響を与えました。静嘉堂文庫美術館の『煎茶道具 鑑賞の手引き』では、次のように説明されています。

日本の煎茶の祖ともいえる売茶翁・高遊外が上投法(熱湯に葉茶を投じる)による喫茶で、「急焼(きゅうしょう)」「急尾焼(きびしょう)」などと呼ばれる中国南方産の焼締陶器の横手湯沸かしを茶注(※)として兼用したことから、和物の急須は宜興の紫砂壺とは全く異なる横手の姿が多い。

静嘉堂 煎茶道具 鑑賞の手引き(静嘉堂文庫博物館)

売茶翁は、中国南方産の横手湯沸かし「急焼(急尾焼)」を茶注の代わりとして用いた、つまり中国では湯沸かしだった器を茶を淹れる器として使い始めたのです。

「煎茶手引の種」
売茶翁の利用していた中国製の茶瓶。横手のボーフラと思われる「煎茶手引の種」より(山本都竜軒 著、1848年、9P)※出典国立国会図書館デジタルコレクション

売茶翁はその茶道具で茶を振る舞いました。当時は物珍しかったのではないでしょうか。

その喫茶法が文人たちの間で人気を集めたことで、横手急須も広く知られるようになりました。この頃の急須には、まだ現在のような茶こしはありません。湯沸かしとして使われていた器を、そのまま茶器として兼用していたことが分かります。

「やかん」も薬を煎じる道具だった

ちなみに、現在では湯を沸かす道具として知られる「やかん」も、もともとは薬を煎じるための器でした。中国から伝わった生薬を加熱するための道具「銚子」「薬銚」がルーツと考えられています。

薬を煮出すためのものは「薬銚」、茶を淹れるものは「茶銚」と呼ばれていました。

やかん

湯沸かしの器具の一つ。やかんは「薬缶」と書くように、昔は薬を煎じるものであった。

室町時代の中ごろにはすでにやかんはあったようである。のちに、薬を煎じるために別の鍋が使われるようになり、江戸時代ごろからは、やかんは主として湯を沸かすものになった。江戸時代にはやかんは湯缶ともよばれた。

麻布やかん組合編著『やかんの本』(2005・ロコモーションパブリッシング)

室町時代にはすでに日本へ伝わり、当初は漢方薬を煎じるために用いられていました。その後、江戸時代になると湯沸かしとして使われるようになり、今日のやかんへと発展します。

当時は、中国の茶壺も、薬を煎じる器も、湯を沸かす器も「茶銚」と呼ばれることがあり、現在ほど用途による区別は明確ではありませんでした。注ぎ口の付いた器は、用途に応じて柔軟に使い分けられていたのです。

注ぎ口がついた道具は、急焼・急須・やかん・土瓶など、様々なものがあり、元々の役割や機能にこだわらず、「茶を淹れるのに便利な道具」として転用されるのはごく自然なことでした。

国産の急須の始まり

朱泥急須(岡田久太、江戸時代19世紀)
朱泥急須(岡田久太、江戸時代19世紀)

売茶翁が用いていた煎茶道具は、基本的に中国からもたらされた渡来品でした。しかし当時、中国製の煎茶道具は非常に高価で、一般の人が手に入れるのは容易ではありませんでした。

そこで京都の陶工たちは、中国製の急焼や茶壺を手本に、日本で煎茶道具を作り始めます。その様子は、田能村竹田の『石山斎茶具図譜』や、澤田楽水居の『煎茶略説』にも記されています。「石山斎茶具図譜」によれば、清水焼の初代・清水六兵衛(1737~1799)に急尾焼および風炉を作らせたのが始まり、と記載されています。

また、『煎茶略説』には、売茶翁が愛用した中国製急焼(南爪形)をもとに、清水焼の名工・初代清水六兵衛(1737〜1799)が写しを制作したことが記されています。

小砂罐(きびしょう)

急焼(きびしやう)唐製をよしとす。然れども其中に好悪あり。

中にも最上の品は高翁(ばいさおう)所持の急焼(きびしゃう)南爪形唐物なり、

清水六兵衛模形して、世上に売茶翁形というはこれなり。

此外(このほか)広東急焼、俗に紅毛形といふ、宝珠形、新渡急焼のうつし也、

朝鮮形、南蛮形、広口などいふ名それぞれよりどころありて仮になづくるなるべし。

此六兵衛茶を好きてみづから 試みて作り出すゆへ、此人の作は土の製も他に勝れてすべてによろし。

高翁(ばいさおう)在世の時の陶工三七、三文字屋七兵衛といふ、建仁寺町に住す、金三、
梅林といふ、清水辺、ともに宝暦の頃の良工なり。今も所ゝに上手あり。

煎茶略説(澤田楽水居 著)

また、売茶翁が存命中には、

  • 三文字屋七兵衛
  • 梅林金三

といった名工も急焼を制作していたことが紹介されています。つまり、日本の急須づくりは、中国製品の模倣から始まり、その後、日本独自の発展を遂げていったことが分かります。

京都の陶工たちが育てた急須文化

黄釉荒磯浮文急須(江戸時代、青木木米)
黄釉荒磯浮文急須(江戸時代、青木木米)

売茶翁の喫茶文化が文人たちの間で広まるにつれ、煎茶道具の需要も高まりました。

京都では、

  • 初代清水六兵衛
  • 青木木米
  • 仁阿弥道八
  • 尾形周平

など、多くの名工が急須を制作するようになります。当初は中国・宜興窯の紫砂壺や急焼を写した作品が中心でしたが、やがて日本人の喫茶習慣に合わせて改良が加えられていきました。

こうして急須は、単なる模倣品ではなく、日本独自の茶器として成熟していきます。

色絵花鳥文急須(江戸時代、尾形周平)
色絵花鳥文急須(江戸時代、尾形周平)※所蔵:東京国立博物館

茶をおいしく淹れるための改良

急須の茶こしとポンス

急須が茶専用の道具として定着すると、形だけでなく機能面にもさまざまな工夫が加えられました。

特に大きな変化が、茶こしの誕生です。もともとの急焼には茶こしは付いていませんでしたが、茶葉をこしながら注げるよう、胴体と一体成形された小さな穴(陶製茶こし)が設けられるようになります。

現在「ささめ」と呼ばれる細かな陶製茶こしも、この流れの中で発展したものです。さらに近代になると、

  • 金網茶こし
  • セラメッシュ
  • ステンレス製ストレーナー

などが考案され、用途や茶葉の種類に応じて選べるようになりました。急須は単に「横手の器」というだけではなく、「おいしく淹れるための道具」として進化を続けてきたのです。

明治以降、全国へ広がる急須づくり

明治時代に入ると、急須づくりは京都だけでなく全国へ広がります。特に、

  • 常滑焼(愛知県)
  • 萬古焼(三重県)
  • 備前焼(岡山県)

などが急須の産地として発展しました。なかでも常滑焼は、きめ細かな朱泥と高い成形技術によって評価を高め、現在では日本を代表する急須の産地として知られています。

海外でも横手急須は 「Japanese Side-Handle Teapot」として紹介されることが多く、日本独自の茶文化を象徴する茶器として認識されています。

急須は日本独自に発展した茶器

急須作家・加藤財さんの横手急須
急須作家・加藤財さんの横手急須

ここまでの流れをまとめると、日本の急須は次のような変遷をたどったと考えられます。

1.中国南方の急焼・急須:酒や湯を温めるための横手の注器

 ↓

2.日本へ伝来:煎茶文化の中で茶器として転用される

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3.売茶翁らによって普及:文人文化とともに日本全国へ広がる

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4.京都の陶工が国産化:中国製を手本に日本製急須が誕生

 ↓

5.茶専用の道具へ改良:茶こしが付き、抽出性能も向上

 ↓

6.現代の横手急須へ

中国では、横手の急焼は酒や湯を温めるための道具でした。

日本ではそれを茶器として取り入れ、煎茶文化の広がりとともに改良を重ねた結果、茶を淹れる専用の道具「横手急須」へと発展しました

横手型の急須は「おいしく日本茶を淹れるための道具」として、日本人が独自に発展させた茶器なのです。そのため、現在でも日本の家庭や煎茶道で広く使われるだけでなく、世界でもJapanese Side-Handle Teapot」と呼ばれ、日本茶文化を象徴する道具の一つとなっています。

参考

※2018年2月2日の記事の内容を見直し、再編集して公開しました。

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