「ぽくぽくぽく」と、読経と共に使われる仏具の「木魚」。以前「木魚の原型・開梆(魚板)」で軽く取り上げましたが、その後、意外と知らない木魚の歴史について、更に掘り下げて調べてみました。
木魚の形
魚とは言いがたい丸い形なのに、なぜ「木の魚」なのか?
元々は「魚板」(ぎょばん)などと言われるように、平らな魚の形をしていました。江戸時代初期に来日した明の高僧、隠元禅師が伝えた「開梆」(魚梆)が、木魚の原型と言われています。
楠や桑などの木材でできており、口に煩悩の珠をくわえています。
時刻を知らせる鳴り物なので、下腹に裂け目があり、中は空洞です。魚板を叩くのは、体内から煩悩を吐き出させる、という意味合いもあったそうです。
なぜ、魚の形をしているのか?
魚は目を閉じて寝ないことから、「魚のように寝る間を惜しんで、日夜修行に励むように」という修行僧への戒めとしして、魚の形をしている、と言われています(出典:中国の禅宗寺院の生活規範「勅修百丈清規」)。
木魚
齋粥二時長撃二通。普請僧衆長撃一通。普請行者二通。
相傳云。魚晝夜常醒。刻木象形撃之。所以警昏惰也。
勅修百丈清規(東陽徳煇 編、1342)
しかし、現在の「木魚」は、鈴のように丸い形をしています。
一身二頭の竜または魚・鯱(シャチ)が向き合い、珠の周りをぐるりと囲んだ丸い形で「円木魚」「団形魚」と言います。体には魚の鱗や龍の姿が彫られており、魚板と同様、口には煩悩の珠をくわえています。
いつ頃、現在のような形になったのか、詳しい歴史は不明ですが、開梆が伝来した後に形を転じ、現在一般的に「木魚」と呼ばれる丸い鈴の形になったと言われています。
室町時代の木魚
いつ頃、日本に木魚が伝わったのか。
調べた所、室町時代の応永4年(1397年)に作られた木魚が、山梨県の禅寺「雲光寺」にありました。雲光寺は元々真言宗のお寺で、応永2年(1395年)に禅寺として再興されたそうです。詳しいことはわかりませんでしたが、少なくとも室町時代に日本に木魚があったことが分かりました。
- 山梨県 雲光寺の木魚(約600年前。1397年)
江戸時代の木魚
次に見つかった古い木魚の記録は、江戸時代です。五代目の歌川広重の写真集「江戸の今昔」(昭和7年)は、旧跡や日常品などの写真と説明書きが掲載されており、木魚についての記載があります。こちらによれば、「江戸時代に道楽寺の和尚が、鈴型の木魚を呼鐘として用いた」とあります。この木魚は鈴の形をしています。
木魚
江戸の頃、安保多羅経に用ひしとは趣きを異にし、呼鐘として用ひんならん、形平たき鈴の如く、趣味者の愛用せしものにや
江戸の今昔(5代目歌川広重、昭和7年)
その他、江戸時代の木魚の記録では、木魚を叩きながら歌い歩く願人坊主(乞食僧)の記録が残っています。
朝日新聞に木魚の歴史についての記事があったので、掲載します。これによれば、江戸時代には木魚を叩くのは異端で、京都市伏見区にある法傳寺(法伝寺)が、浄土宗で最初に念仏に木魚を使ったお寺だとか。
- ポクポク木魚念仏、異端だった? 法傳寺で坐像公開(朝日新聞 2018/4/26)
当初は異端でしたが、徐々に市民権を得ていき、現在のように一般化したのでしょう。ちなみに、西洋には木魚を起源とする「テンプル・ブロック」という木製打楽器があり、オーケストラなどで使われています。
木魚の由来
巨大魚の形
「和漢三才図会」によれば、「人間の住むこの世は、「鰲」という大きな魚の背中に乗っている。その魚は、いつも背中をかゆがっている。背中を打てば、かゆみがとれて喜ぶので、川や山が振動するのだと、釈氏(お坊さん)は言っている。この中国の唐の説により、みな梵唄に木魚を用いるようになった」とあります。
木魚 もくぎょ 犍雅
三才圖會に云う、木魚は木を刻んで魚の形を為り、其の中を空とし、之を敲く声有り。
釋氏謂らく、閣浮提(えんぶだい ※この世のこと)は乃ち巨なる鰲なり、載所の身 常に癢(かゆ)きを作す。則ち其の鰭(ひれ)を鼓ては、川山之の為に震動す。故に其の形を象って之れを撃つと、此れ荒唐の之説なり。然る今釋氏の賛、梵唄に皆之を用う。
按ずるに木魚禅家に之を掛けて撃つ。其の魚鯉の形に似たり。所謂(いわゆ)る鰲(音は敖、魚の名)は何の魚と云うを知 らざるなり。
「和漢三才図会」(1901、寺島良安 編)
木魚の文様
「和漢三才図会」には、以下の続きがあります。
木魚 もくぎょ 犍雅
釋氏要覧に之を註し、日鐘声石板 木板 木魚 砧槌 声有りて、能く衆を集むる者、皆健雅と名く。
今 寺院の木魚 者蓋し古人 木材を以て之撃つべからず。故魚の象を創也。又必ず張華双魚の此名を取り、或いは鯨魚 一たび撃てば蒲労 之為めに大鳴るを取る也(蒲労蒲牟作于鐘之下詳)。
「和漢三才図会」(1901、寺島良安 編)
蒲労(蒲牢)とは?
仏教に関する故事の解説書「釈氏要覧」(1019年、道誠 編)によれば、「蒲労」(ほろう)は、鯨に襲われる時などに、大声を出すそうです。
蒲労は中国の伝説上の生き物で、龍の9人の子供(竜生九子)のうち、4番目の子。龍にはなれなかったが、姿形は龍に似ています。海辺に住み、吠えることを好むことから、大きな音を出す楽器の意匠に使われるようになりました。木魚のほか、銅鐸や釣鐘を吊るす部分の「竜頭」にその姿を見ることができます。
様々な木魚
巨大木魚
北海道は小樽にある「龍徳寺」(1857年創設)。こちらのお寺には、「日本最大の木魚」があります。その大きさは、なんと、直径1.35m、 重さ約330kg。もはや座って打つことはできず、立ったまま打ち鳴らしています▼
また、日本で2番目に大きい木魚は、京都の仁和寺近くの「轉法輪寺」(てんぽうりんじ)にあります(約4尺=直径1.2m、重さ約200kg)。こちらには、「蓮の花の形の木魚」「ドクロ型の木魚」などの珍しい木魚もあるそうです(詳しくは下記サイト参照)。
その他にも、日本各地に巨大木魚があります。
- 神奈川県「長谷寺」 (3尺5寸)
- 京都府 「智積院」(3尺3寸)
- 福井県 「永平寺」(3尺=約90cm)
- 長野県 「興禅寺」(3尺=約90cm)
- 長野県「自成寺」(3尺=約90cm)
- 長野県「明徳寺」 (3尺=約90cm)
終わりに
現在、日本国内で木魚を製作しているのは、愛知県尾張地区のみなんだとか。伝統文化の世界はどこも同じ問題を抱えていますが、木魚作りも高齢化が進み後継者不足で、職人さんの数も工房も減っているそうです。
日本の木魚工房
一度購入したら(壊れたりしない限り)なかなか買い換えるものではないですし、空き寺や廃寺が増えているご時世、厳しいものがあるようです。
余談ですが、伝統産業から一流ブランドになった、「HERMES」(エルメス)の話を。
HERMESは、元々は馬具工房でした。汽車や自動車の普及により、馬具の需要減が見込まれる中、自分達を馬具職人ではなく「革專門の職人」と定義し直します。そして事業をスイッチングし、鞄や財布などの革製品メーカーにシフトすることで、世界的なブランドに成長しました。もしも、時流を読まずに馬具にこだわり続けていたら、恐らく生き残っていなかったでしょう。
木魚も「木製打楽器專門の職人」と定義し直すことで、高い技術力を活かし、一般向けの楽器製作などの道があるのかもしれません。