「ポク、ポク、ポク」という音とともに、読経で使われる仏具「木魚」。
寺院の法要で目にする機会は多いが、「なぜ木魚という名前なのか」「なぜ魚の形なのか」と聞かれると、意外と答えられる人は少ない。一般的な木魚は丸い形で、ぱっと見では魚には見えない。しかし、そのルーツをたどると、木魚はもともと平らな魚の形をした仏具であり、中国の禅宗に由来する長い歴史を持っていることが分かる。
さらに、「魚は眠るときも目を閉じない」という古来の考え方や、中国の伝説上の生き物「鰲(ごう)」「蒲労(ほろう)」など、木魚にはさまざまな思想や文化が込められている。そこで、中国の禅宗の古典『勅修百丈清規』や『和漢三才図会』などの一次資料をもとに、木魚の由来と歴史、現在の形になるまでの変遷を紹介する。
木魚はなぜ魚なのか?

結論から言えば、魚は眠るときも目を閉じないと考えられていたためである。
禅宗では、「魚のように昼夜を問わず目覚め、怠ることなく修行に励め」という戒めとして魚が象徴とされた。そのため、修行僧へ時刻を知らせる鳴り物も魚の姿に作られ、「木魚」と呼ばれるようになった。
この考え方は、中国禅宗の生活規範をまとめた『勅修百丈清規』(1342年)にも記されている。

※出典:勅修百丈清規(2巻 67P)国立国会図書館サイトより
木魚
齋粥二時長撃二通。普請僧衆長撃一通。普請行者二通。
相傳云。魚晝夜常醒。刻木象形撃之。所以警昏惰也。
勅修百丈清規(東陽徳煇 編、1342)
意訳すると、
魚は昼夜を通して常に目覚めている。そこで木を魚の形に刻み、これを打って修行者の眠気や怠惰を戒めるのである。
という意味になる。
この記述から分かるのは、14世紀にはすでに「魚は常に目覚めている生き物」という思想が禅宗の世界で広く共有されていたことである。木魚は単なる打楽器ではなく、修行僧への教えそのものを形にした仏具だったのである。
もっとも、現在私たちが目にする木魚は丸い鈴のような形をしており、魚には見えない。では、なぜ現在のような姿へ変化したのだろうか。
その答えを知るには、木魚の原型である「魚板(開梆)」まで歴史をさかのぼる必要がある。。
木魚の原型は魚板(開梆)だった

現在「木魚」といえば丸い形だが、その原型はまったく異なる姿をしていた。木魚のルーツとされるのが、中国禅宗で用いられていた開梆(かいぱん)または魚板(ぎょばん)と呼ばれる法具である。
魚板は一枚の板を魚の形に彫り抜いたもので、平たい板状をしている。寺院では読経や食事、作務などの時間を知らせる合図として用いられ、境内に吊るして木槌で打ち鳴らした。
日本では、江戸時代初期に黄檗宗の開祖である隠元隆琦が明から来日した際に伝えたとされる。現在でも萬福寺には、魚板(開梆)が受け継がれ、時刻を知らせるために実際に使用されている。
魚板にはクスノキやクワなどが用いられ、口には珠をくわえ、腹部には大きく裂け目があり、中は空洞になっている。この裂け目には音を鳴らす道具という単なる構造上の理由だけでなく、「煩悩を吐き出す」という象徴的な意味も込められているという。魚板を打つ行為は、時を知らせるだけでなく、自らの煩悩を戒め、修行への心構えを新たにする意味も持っていた。
開梆・魚板については、こちらの記事で詳しく紹介している。

なぜ魚板・開梆は魚の形をしているのか
魚板が魚の姿をしている理由は、現在の木魚と同じである。禅宗では、魚は眠るときも目を閉じない生き物と考えられていた。そのため、「常に目覚め、修行を怠らない」という理想を象徴する存在として魚が選ばれた。
現代の生物学では、多くの魚には人間のようなまぶたがなく、目を閉じることはないことが知られている。ただし、睡眠そのものを取らないわけではなく、活動を休止して休息している。
禅宗が重視したのは生物学的な正確さではなく、「眠っていても目を閉じない魚」という姿を、修行者のあるべき姿に重ね合わせた点にある。こうした思想は中国から日本へ伝わり、魚板だけでなく、後に登場する木魚にも受け継がれていく。
木魚はなぜ丸い形になったのか
魚板は平たい板状なのに対し、現在の木魚は丸い形をしている。だいぶ様変わりしたのは一体どうしたことか。
この丸い形の木魚は「円木魚」(えんもくぎょ)あるいは「団形魚」(だんぎょう)と呼ばれ、魚板とは別の形式として発展した。丸い木魚には、一匹の魚ではなく、二頭の龍や魚、あるいは鯱(しゃち)が向かい合い、一つの珠を囲む意匠が多く見られる。体には魚の鱗や龍の文様が彫刻され、口には魚板と同じように珠をくわえている。
しかし、魚板がいつ、どのような経緯で丸い木魚へ変化したのかについては、明確な史料は残されていない。
現在分かっているのは、中国で魚板とは別に球形の木魚が用いられるようになり、それが日本へ伝わったということだけである。つまり、現在私たちが「木魚」と呼んでいるものは、魚板がそのまま形を変えたというよりも、中国仏教の中で新たに発展した別系統の木魚が日本に定着した可能性が高い。その後、この丸い木魚は読経に欠かせない仏具として広く普及し、今日では「木魚」といえばこの形を指すようになったのである。
木魚の歴史―木魚はいつ日本へ伝わったのか

それでは、いつ頃、日本に木魚が伝わったのか。
木魚が日本へ伝わった正確な時期については、調べてみてもよく分からなかった。一方で、現存する遺品からは、少なくとも室町時代には木魚が日本で用いられていたことが確認できた。
室町時代にはすでに木魚が存在していた
現存する古い木魚の一つが、山梨県にある雲光寺に伝わる木魚である。
この木魚には応永4年(1397年)の銘があり、およそ600年前に製作されたことが分かっている。雲光寺はもともと真言宗の寺院だったが、応永2年(1395年)に禅寺として再興された寺院だ。木魚が禅宗と深い関わりを持つことを考えると、この時代にはすでに禅宗寺院で木魚が用いられていたことが伺えるう。
ただし、この木魚がどのような経緯で伝わったのか、中国から直接もたらされたものなのか、日本国内で製作されたものなのかについては不明だ。現時点では、「室町時代にはすでに日本で木魚が使われていた」ということまでが、確実に言える歴史的事実である。
- 山梨県 雲光寺の木魚(約600年前。1397年)
木魚念仏最初の寺と伝わる法傳寺@京都市伏見区
朝日新聞に木魚の歴史についての記事があったので、参考として掲載する。法傳寺に伝わる資料では、「木魚念仏最初の地」であり、浄土宗で最初に念仏に木魚を取り入れたとされている。法傳寺(ほうでんじ)は行基の創建した寺院で、通常非公開。
法傳寺の住持・不退圓説(ふたいえんせつ。1714~1759年)が浄土宗での「木魚念仏の開祖」と伝えられ、首にかけた木魚を叩きながら念仏を唱え歩いた。
- ポクポク木魚念仏、異端だった? 法傳寺で坐像公開(朝日新聞 2018/4/26)
現在では、読経の際に木魚を叩く光景はごく一般的である。しかし、江戸時代初期には、木魚を用いることは必ずしも一般的ではなかったようだ。
当初は異例の試みとして受け止められたものの、その後、木魚は読経や念仏の際のリズムを整える法具として広まり、現在では宗派を問わず広く用いられるようになった。仏具もまた、長い年月をかけて受け入れられ、文化として定着していくことが分かる。
その他、江戸時代の木魚の記録では、木魚を叩きながら歌い歩く願人坊主(乞食僧)の記録が残っている。願人坊主とは、寺社への参詣を勧めたり、念仏を唱えたりしながら各地を巡った僧侶である。托鉢や勧進を行う際に木魚を打ち鳴らし、人々の注意を引いていたという。
つまり木魚は、寺院の中だけで使われる仏具ではなく、町の人々にとっても馴染みのある音だったのである。

江戸時代の木魚の姿
江戸時代に入ると、木魚に関する記録は徐々に増えてくる。
当時の資料ではないが、、昭和7年(1932年)に五代目歌川広重が刊行した写真集『江戸の今昔』に、江戸時代の木魚について次のような説明が掲載されている。この本は、旧跡や日常品などの写真と説明書きを掲載しているもの。

木魚
江戸の頃、安保多羅経に用ひしとは趣きを異にし、呼鐘として用ひんならん、形平たき鈴の如く、趣味者の愛用せしものにや
江戸の今昔(5代目歌川広重、昭和7年)
ここで紹介されている木魚は、現在見られる球形に近い姿をしている。持ち歩くためか吊るすためなのか、持ち手もついている。
「江戸時代に道楽寺の和尚が、鈴型の木魚を呼鐘として用いた」と記載されており、この記録から江戸時代には木魚が読経だけでなく、人を集める合図(呼鐘)の役割も担っていたことが分かる。
木魚は西洋音楽にも取り入れられた
木魚は仏教の世界や日本や中国だけにとどまらず、西洋音楽にも影響を与えている。
オーケストラなどで使用されるテンプル・ブロック(Temple Blocks)は、木魚をもとに考案された木製打楽器である。現在ではクラシック音楽や吹奏楽、映画音楽などでも使用されており、「ポクッ」という独特の乾いた音色は世界中の演奏家に親しまれている。
木魚の由来―魚の姿に込められた、もう一つの意味

木魚が魚の姿をしている理由として最もよく知られているのは、冒頭で紹介した「魚は眠るときも目を閉じないため、修行僧への戒めとなった」という説である。
しかし、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』を読むと、それとは別の由来も紹介されている。
巨大魚「鰲」(ごう)の伝説。『和漢三才図会』に見る木魚
『和漢三才図会』には、中国に伝わる次のような話が記されている。

木魚 もくぎょ 犍雅
三才圖會に云う、木魚は木を刻んで魚の形を為り、其の中を空とし、之を敲く声有り。
釋氏謂らく、閣浮提(えんぶだい)は乃ち巨なる鰲なり、載所の身 常に癢(かゆ)きを作す。則ち其の鰭(ひれ)を鼓ては、川山之の為に震動す。故に其の形を象って之れを撃つと、此れ荒唐の之説なり。然る今釋氏の賛、梵唄に皆之を用う。
按ずるに木魚禅家に之を掛けて撃つ。其の魚鯉の形に似たり。所謂(いわゆ)る鰲(音は敖、魚の名)は何の魚と云うを知 らざるなり。
「和漢三才図会」(1901、寺島良安 編)
「人の暮らすこの世界は、鰲(ごう)という巨大な魚の背に乗っている。その魚はいつも背中がかゆいため、体を叩くと喜び、山や川が震えるほどの音が響く。そこで、その姿にならって木魚を作り、読経(梵唄)の際に打つようになった」のだと。
もちろん、これは現実の出来事ではなく、中国に伝わる伝説である。『和漢三才図会』の著者・寺島良安も、この説について「荒唐の説(現実離れした話)」と評しており、史実として紹介しているわけではない。
それでも、このような伝説を掲載したことからは、江戸時代には木魚の由来について複数の説が語られていたことが分かる。つまり、「魚は眠らないから」という禅宗の思想だけでなく、中国の神話や伝説も木魚のイメージ形成に影響を与えていたのである。
- 玉鰲魚花插(中国・明代 1368-1644年、国立故宮博物院 南部院):玉でできた鰲(鰲魚)の花入
木魚の文様に隠された意味
現在の木魚をよく見ると、魚の鱗だけではなく、龍のような顔や角が彫られているものが多い。
一見すると魚にも龍にも見える不思議な姿である。これは単なる装飾ではなく、中国の伝承に登場する霊獣が取り入れられているためである。『和漢三才図会』には、その理由についても記されている。そこでは木魚の意匠について、
- 双魚(二匹の魚)
- 鯨魚
- 蒲牢(ほろう)
との関係が紹介されている。これらはいずれも、中国文化において「大きな音」を象徴する存在であった。
※以下の向きだと、双魚・口にくわえてるアブクが分かりやすいかと思う。
龍の子ども「蒲労」(ほろう)
木魚を理解するうえで欠かせない存在が、「蒲労」(蒲牢とも)である。「和漢三才図会」には下のような記述がある。
木魚 もくぎょ 犍雅
釋氏要覧に之を註し、日鐘声石板 木板 木魚 砧槌 声有りて、能く衆を集むる者、皆健雅と名く。
今 寺院の木魚 者蓋し古人 木材を以て之撃つべからず。故魚の象を創也。又必ず張華双魚の此名を取り、或いは鯨魚 一たび撃てば蒲労 之為めに大鳴るを取る也(蒲労蒲牟作于鐘之下詳)。
「和漢三才図会」(1901、寺島良安 編)
「蒲牢は、中国の伝説に登場する「竜生九子(りゅうせいきゅうし)」の一つで、龍の九人の子どもの第四子とされる。姿は龍によく似ているが、龍そのものではない。海辺に棲み、大きな声で鳴くことを好む」という。
仏教に関する故事の解説書「釈氏要覧」(1019年、道誠 編)によれば、「蒲労」は鯨に襲われる時などに大声で叫ぶそうだ。そのため、鐘を打つ撞木(しゅもく)が鯨の形に作られることもあったとか。この性質から「大きく響く音」の象徴となり、中国では鐘や銅鐸など、音を出す道具の装飾として用いられるようになった。
日本の寺院でも、梵鐘を吊るす部分の竜頭(りゅうず)に、その姿を見ることができる。木魚にも龍のような顔が彫られているのは、この蒲牢の伝承を取り入れているためと考えられている。つまり木魚は、魚だけを表した仏具ではない。
- 蒲牢 (中国古代神话传说中龙的第四子)
- 蕤賓鐘(明代、国立故宮博物院南部院):鐘の頂上にある吊り下げ用の輪が蒲牢の意匠になっている
木魚は中国文化と禅宗思想が融合した仏具
木魚の由来をたどると、一つの理由だけでは説明できないことが分かる。
禅宗では、魚は修行僧への戒めの象徴だった。一方、中国の古典には巨大魚「鰲」や「蒲牢」といった神話上の存在も登場し、「音を響かせる仏具」としての木魚にさまざまな意味が与えられてきた。
現在私たちが寺院で目にする木魚は、こうした禅宗の教えと中国文化の伝承が長い年月をかけて融合した姿なのである。
現在も受け継がれる木魚

木魚は古くから使われてきた仏具であるが、その文化は現在も各地の寺院で受け継がれている。その中でもひときわ目を引くのが、日本各地に残る巨大木魚である。
日本最大級の巨大木魚
北海道小樽市の龍徳寺には、日本最大級とされる木魚がある。
その大きさはなんと、直径は約1.35メートル、重さは約330キログラム。もはや通常の木魚のように座って打つことはできず、立ったまま大きな撞木で打ち鳴らす。その迫力ある姿は、木魚というより一つの建造物のようでもある。
日本で2番目に大きいの巨大木魚
京都市の轉法輪寺(てんぽうりんじ)には、直径約1.2メートル、重さ約200キログラムの巨大木魚が伝わる。
同寺では巨大木魚のほかにも、「蓮の花の形の木魚」「ドクロ型の木魚」などの珍しい木魚もある(詳しくは下記サイト参照)。

日本各地の巨大木魚
このほかにも、全国には大型の木魚を所蔵する寺院が残されている。木魚は読経のための仏具である一方、寺院ごとの歴史や信仰を伝える文化財としての側面も持っている。
- 神奈川県「長谷寺」 (3尺5寸)
- 京都府 「智積院」(3尺3寸)
- 福井県 「永平寺」(3尺=約90cm)
- 長野県 「興禅寺」(3尺=約90cm)
- 長野県「自成寺」(3尺=約90cm)
- 長野県「明徳寺」 (3尺=約90cm)
木魚づくりを受け継ぐ職人たち
現在、日本国内で木魚を専門に製作する工房は、愛知県尾張地方に集中しているといわれる。
一つひとつを木から彫り出し、内部をくり抜き、音を確かめながら仕上げる木魚づくりは、高度な木工技術と長年の経験を必要とする伝統工芸である。代表的な工房として、次のような製造所が知られている。
木魚工房
しかし、寺院の減少や後継者不足などの影響もあり、木魚づくりを取り巻く環境は年々厳しさを増している。木魚は何十年、あるいは百年以上使い続けられることも珍しくない。だからこそ、新たな需要は決して多くない。
それでも職人たちは、受け継がれてきた技術と音色を守り続けている。
終わりに
木魚は、単に読経の拍子を取るための仏具ではない。
その起源は中国禅宗の魚板(開梆)にあり、「魚は眠ることなく目覚め続ける」という思想から、修行僧への戒めとして魚の姿が選ばれた。さらに、中国には巨大魚「鰲」や、龍の子「蒲牢」といった伝説があり、木魚の形や文様にはそうした文化的背景も重ね合わされてきた。
つまり木魚は、禅宗の教えと中国文化が融合して生まれ、日本で独自に発展した仏具なのである。普段何気なく耳にしている「ポク、ポク」という音も、その背景を知ると、まったく違った響きに感じられるのではないだろうか。
