紅葉にはまだ早い季節。越渓茶の越渓禅師ゆかりの古刹、永源寺を訪問してきた。
臨済宗永源寺派 大本山 永源寺
永源寺は、滋賀県東近江市にある古刹で、臨済宗永源寺派の総本山。 紅葉の名所として有名。
開基は南北朝時代、近江国の守護職にあった佐々木氏頼が、延文6年(1361年)に堂宇を建立。出家して法名を雪江崇永と名乗り、寂室元光(じゃくしつげんこう。)禅師(1290-1367年)を迎え、永源寺と名づけたのが始まりと言われている。
永源寺は幾度かの火災に遭い、一時衰退。江戸時代に後水尾天皇の勅命を受けた一絲文守禅師が入山し、中興の祖となり復興を果たし、現在に至っている。
「越渓」の名の由来
永源寺で越渓茶を生んだ越渓秀格(えっけいしゅうかく 生年不明~1413年)は、南北朝-室町時代の僧。永源寺開山の寂室元光に師事し、その印可をうける。永源寺第五世住持であり、退蔵寺を開いた。諡号は円照仏恵禅師。
「越渓」の道号は、中国越州の「若耶渓」(じゃくやけい)にちなむ。また、永源寺そばを流れる愛知川(越智川・越渓)とも掛けられているのではないかとのこと(※)。若耶渓は、文人墨客に愛された風光明媚な地。西施が蓮の花を摘んだという逸話が残っており、李白の「採蓮曲」はこの逸話を元にしている。また、禅語「鳥鳴きて山更に幽なり」は、漢詩「若耶渓に入る」(王籍、6世紀)の一節。
若耶渓は、今では平水江と言う名に変わってしまった。現在の浙江省紹興市にあり、緑茶の「「平水日鋳茶」や「平水珠茶」(へいすいじゅちゃ)の産地でもある。珠茶の方は、英語圏で「ガンパウダー」(火薬)というなんとも物騒な異名を持つ茶だ。
※出典:寂室元光墨蹟「越谿」(滋賀県立琵琶湖文化館)
裏参道から永源寺へ
八日市駅から近江鉄道バスに乗り、永源寺へ。本来は「永源寺前」バス停で降りるのだが、うっかり乗り過ごしてしまい、終点の「永源寺車庫」で下車。乗車時間は30分位だったろうか。
八風街道を通り、愛知川にかかる橋を渡る。愛知川は、古くは「雷渓」(らいけい)と呼ばれ、頻繁に洪水を引き起こす暴れ川だったそうだが、永源寺が開かれた後は穏やかになり、「音無川」(おとなしがわ)と呼ばれるようになったとか。この日の川も暴れん坊だったとは思えないほど、静かな姿だった。
裏参道を歩いていると、こんな看板があった。四国八十八ヶ所の霊場巡りに、詩呂(識蘆)庵園地、詩呂の滝まで、遊歩道があるようだ。室町時代の武将、小倉実澄(おぐらさねずみ)が建てた「識蘆庵」の跡が残っているそうだ。識蘆(しきろ)とは唐の詩人、蘇東坡(蘇軾)の漢詩「西林の壁に題す」にちなむ。瀧の名もこの庵による。
題西林壁 西林の壁に題す
横看成嶺側成峰 横より看れば嶺を成し 側よりは峰を成す
遠近高低各不同 遠近高低 各 同じからず
不識廬山真面目 廬山の真面目を識らざるは
只縁身在此山中 ただ身の此の山中に在るに縁る
廬山は、中国江西省の名山で、古くから詩や画の題材となっている。「廬山の真面目(しんめんもく)」は、中国のことわざになっている。見る角度によって様々な形に変わるように、全容をとらえないこと。識蘆の滝は、実澄がこの滝の水で茶を賞味したという逸話が残っている。気になったが今回は時間がないので、寄り道をせずに永源寺へと向かう。
茶筅塚・風穴
紅葉にはまだ早い季節だったが、気の早い木々が所々朱に染まっている。
途中、茶筅塚や風穴があった。5月に開催される「寂室禅師 奉賛茶会」で茶筅を供養し、この塚に納めているらしい(表千家・裏千家・遠州流・煎茶道 泰山流)。風穴は、元々洞窟になっており、貯蔵庫(自然の冷蔵庫)として使われていたそうだが、今は石垣で埋められている。
永源寺の裏看門へ。無人だったので、総門の受付に移動し、拝観料をお納めする。
表門から永源寺の境内へ
改めて表参道から入り直す。10月だったが、木々の緑が美しい。手水鉢が珍しく耳の形をしている。「洗耳水」(せんじすい)と言い、ここで世俗のけがれを聞いた耳を洗い清めよ、という意味が込められている、とのこと。すぐそばに愛知川(音無川)が流れており、清流のせせらぎでも耳を洗われる。
総門を抜け、整備された石畳を歩いていくと、大層見事な山門が見えてきた。江戸時代後期、享和二年(1802)に建造されたもの。二階建てで楼上には、釈迦牟尼佛、文殊菩薩、普賢菩薩、十六羅漢像が安置されている。「三解脱門」(さんげだつもん)とも呼ぶとのこと。重厚感があり、圧倒される存在感。
本堂(方丈)・鐘楼「華鯨楼」
大きな葦(よし)葺きの屋根。国内最大級の大きさだそうで、約10年ごとに屋根の葺き替えが行われ、その美しさを保っている。琵琶湖徳さんのヨシが使われているとか。本尊は世継観音で、子宝に霊験あり。本堂は、靴を脱いで中を拝見することができる。
開山堂「大寂塔」。扁額「大寂」は隠元禅師筆
開山 寂室禅師の墓所の上に建てられている開山堂。能舞台を改築した建物で、開山堂にかけられた「大寂」の扁額は、なんと黄檗宗の隠元禅師の筆。ここで会えるとは思っていなかった。「隠元禅師が、中峰明本禅師の法孫にあたる」ことによる縁だそうだ(黄檗宗は臨済宗の一派。臨済正宗、臨済宗黄檗派とも呼ばれた)。
中峰禅師(1263-1323年)は、中国元の時代「稀代の名僧」として知られた禅宗屈指の高僧。天目山で修行後、寺の住持にと請われても断り、皇帝の求めにも応じず、行脚して定住せず。自らを「幻住」と称し、度々天目山に帰ることもあったが、各地に仮の草庵「幻住庵」を構えては隠遁し、生涯を修行と教化に生きた。脱俗と清貧の境涯。
日本にも多くの影響を与え、多くの学僧がその禅風を慕い、中国に渡って参禅した。寂室禅師もその一人。中峰禅師から「寂室」の号を授けられている。そしてその生き方に影響を受け(※)、天目山に似ているこの地に永源寺を開山した。
※中峰禅師の教えを受け継ぎ、山間に庵を結び修行する禅僧たちは「幻住派」と呼ばれた。
蛇腹天井(黄檗天井)
開山堂から法堂への回廊。天井はアーチ型で、龍の腹を表す蛇腹天井(黄檗天井とも)。ということは、こちらのお寺も境内全体を龍と見立てているのか。
標月亭・含空院
標月亭は通常非公開だが、観楓時期には特別公開され、茶がふるまわれるそう。オフシーズンなので残念ながら見ることはできなかったが、愛読している庭園情報サイトで拝見することができた。
標月亭の隣「含空院」(がんくういん)や道場は、まだ新しい。21世紀に落慶した建物で、旧含空院(考槃庵)は、広島県の「神勝寺 禅と庭のミュージアム」に移築されており、現在は茶房として利用されているとか。
ほとんど来訪者の姿がなく、境内はとても静かで心洗われる。紅葉の時期はそれは綺麗だろうが、山中の寺の雰囲気を感じるには、返っていい時期だったかもしれない。
「こんにゃくの さしみもすこし 梅の花」(松尾芭蕉)
松尾芭蕉の句が彫られた石碑が。芭蕉は永源寺には来ておらず、この句も永源寺を詠んだものではなく、名物「永源寺こんにゃく」にちなんで寄贈された句碑とのこと。ちょっと紛らわしい。
…そういえば、芭蕉は奥の細道の旅を終えた後、大津に「幻住庵」という草庵を構えている。
表参道の羅漢坂を下る
裏参道から逆ルートできたので、表参道を下る。総門のそばには、彦根藩主の井伊家墓所と句碑があった。
綺麗に道は整備されているが結構な石段が続くので、足腰の悪い方にはきついかもしれない。岩肌と一体化している十六羅漢に見守られながら、石段を下っていく。裏参道から入って下りで帰るのは正解だったかもしれないとも思う。苔むして岩肌と一体化している十六羅漢に見守られながら、石段を下っていく。
なお、表参道の入り口では杖の貸し出しもあった。
門前茶屋の名物「だるま餅」
門前茶屋の「うり坊」さんで、永源寺名物のだるま餅を頂く。ニッキとヨモギのほか、「イバラ餅」というものがあり、これはサルトリイバラの葉で包んだ餅だそうだ。ヨモギを頂いた。これはおいしい。
他にもコンニャクや自家製味噌(フキノトウ・山椒・柚子)、漆塗りの椀や皿など、骨董品が所狭しと並べてあった。オフシーズンなので人の姿はまばらだったが、紅葉の時はそれはそれは繁盛するのだろう。
日本茶カフェ「茶庭」
バスの時間までだいぶあったので近隣を散策した所、広い茶畑が。茶の白い花に丸いつぼみが鈴なりになっている。
また、大通り沿いに「茶庭」(さにわ)という茶屋があった。2024年5月にオープンした日本茶カフェで、実生の茶樹・在来種の政所茶が頂けるらしい。残念ながら訪問時は開いていなかったが、公式Instagramによれば金土日に営業しているとのこと(※臨時休業あり)。永源寺付近にはゆっくりお茶が飲める所がなかったので、こういった場所ができたことはよきかな。