長崎三福寺の1つ、黄檗寺院の崇福寺(そうふくじ)に。江戸時代前期の1629年、唐僧の超然(ちょうねん)により、華僑の菩提寺として建立された日本最古の唐寺である。隠元禅師もこちらに逗留している。
竜宮門の異名を持つ三門(楼門)
長崎駅前から路面電車の終点「崇福寺」を降り、徒歩数分。
商店街を抜けると、ここだけ別世界のような朱塗りの門が姿を表す。「千と千尋の神隠し」の世界のようだ。崇福寺のシンボル的存在で、竜宮門の異名もうなづける。少し色褪せて、鮮やかにくすんだ朱。
入口で出迎えてくれるのは、鞠と子獅子をかかえた中国獅子。両方とも口を開けているので、阿吽の狛犬ではない。唐草文様の風呂敷をまとわせたら、獅子舞を踊りそうな顔をしている。
二階建てだが階段やハシゴは見えなかったので、上部の建造物は飾りだろうか。中央の扁額「聖壽山」は、隠元禅師の筆。
重厚な瓦屋根には魔伽羅(マカラ)に瓢箪と、入念な火除けのまじないがほどこされている。門の内側にもシャチが二匹。天井画も描かれていたが、かすれてよく見えなかった。吉祥文様の「七宝つなぎ」もあちこちに見える。
獣環
扉には「獣環」(じゅうかん)。中国の陶磁器の持ち手などでよく見るデザイン。巻き毛に葉のような形の耳、眼力が強い。昔見た映画「ラビリンス/魔王の迷宮」でも、こんなドアノッカーが登場していた。こちらは肝心の環がついていないので装飾なのか、それとも環はなくなってしまったのか。
後で調べた所、以前盗難に遭い、戻ってきたものの本物は保存し、門扉についているこちらは模造品なのだそう。
三門をくぐって左手に曲がり、石造りの参道を登る。
踊り場に設置された石壁の表には、長寿の実の桃。裏には、登竜門の故事「鯉の滝登り」や、宝巻(巻物)などの縁起物の彫刻が施されている。
意外なことに、この門は、日本人の技術者によって建設されたものだそうだ。
国指定重要文化財 崇福寺三門(楼門)
現在、崇福寺の象徴ともなっているこの門は、最も中国趣味の濃厚なデザインである。しかし、中国で材料を加工し、中国人技術者が建設した建物が多い崇福寺の中にあって、この建物は、棟梁の大串五郎平 以下、すべて日本人技術者によって建設されている。
以前にあった山門は火災や風災で倒壊し、嘉永2年(1849)4月に再建された際に、初めて竜宮門と呼ばれる様式で建てられた。また、寺院の外門で中央と左右に門戸があることから、三門と呼ばれる。
基部は石の練り積み漆喰塗りで造られ、これを屋根に架設し、その上に入母屋屋根の上層をのせ、勾欄をめぐらした楼門形式で、左右脇門は漆喰塗基部に瓦屋根をのせている。
崇福寺境内の解説板より(長崎市教育委員会 平成29年設置)
今の門は1849年に再建されたもの。以前は竜宮門様式ではなかったとのことだが、元々はどんな門だったのか気になるところだ。
国宝「第一峰門」(唐門)
長い石段を登りきると、第二の門「第一峰門」にたどり着く。名前が不思議だったのだが、元々はこちらの門が第一門だったらしい。扁額の「第一峰門」は、隠元の弟子・即非如一の筆。
国宝 崇福寺 第一峰門
この門は、材料を中国寧波で加工し、唐船数隻で長崎へ運び、元禄8年(1695)に建設された。
軒下の構造組物は、四手先三葉栱と呼ばれる複雑巧緻な詰組であり、国内では類例がなく、中国華南地方でも珍しい。寺内の他の建物にもみられる。垂木を平に使った二軒の扇垂木・鼻隠板・挿肘木・柱上部の籐巻等の中国の建築様式が用いられている。軒下軒裏には極彩色の吉祥模様を施し、雨がかり部分は朱丹一色塗にしてある。
当初はここが山門であったが、延宝元年(1673)、この門の下段西側に、新たに三門が建立されたことから、ここは二の門となった。別名は唐門・海天門・中門などと呼ばれる。第一峰門と海天の名称は扁額の文字による。
崇福寺境内の解説板より(長崎市教育委員会 平成29年設置)
組物「四手先三葉栱」
第一峰門の「四手先三葉栱」(よてさきさんようきょう)は、日本国内ではここでしか見られない意匠だとか。この門だけでも、崇福寺は一見の価値ある場所。
瑞雲・七宝・丁字(ちょうじ。スパイスのクローブ)・霊芝と、「宝尽くし」の文様でも見かける吉祥文様がてんこ盛り。色がくすんでもこの豪華さ。創建当時は極彩色で彩られ、さぞ絢爛豪華だったに違いない。
崇福寺 境内
紙銭を燃やす「金炉」
境内に足を踏み入れると、まず目に入ってくるのは長崎の唐寺や唐人屋敷跡でもよく見かけた炉。
中国では、神仏の参拝や先祖供養などで、紙のお金(紙銭。冥銭とも)を燃やして供える(もちろん本物のお金ではなく、紙幣を模したもの)。お金を燃やす専用の炉だから「金炉」。横浜中華街の関帝廟や、台湾のお寺でも見かける。
崇福寺は福建省福州の華僑が、故郷から超然を招いて創建したことから「福州寺」とも呼ばれている。毎年夏には華僑が集まり、明末清初の風習を伝える法要「普度盂蘭盆勝絵」(ふどうらぼんしょうえ)が行なわれると言う(通称、中国盆)。この法要でも、財宝をかたどった紙の金山・銀山のお焚きあげを行う。
国宝「大雄宝殿」
いわゆる本堂。1646年の創建、本尊は釈迦如来。脇待は迦葉と阿難。入口に受付がなく、どこで拝観料をおさめたらいいのだろうと戸惑ったのだが、こちらののお賽銭箱にいれるようになっていた。無人駅ならぬ無人寺。拝観料は300円。寺の案内を書いた小さな冊子も、こちらに置いてあった。
本堂に鎮座されている釈迦如来像の内部には五臓六腑と鏡が収められており、金属製の内臓を持つ世にも珍しい仏像とのこと。
崇福寺「大雄宝殿」の額には、大雄宝殿を寄進した唐通事(※通訳兼外交官)の何高材(がこうざい)の名が見える。
軒下には、珍しい逆さの擬宝珠(ぎぼし)。本堂の内部には十八羅漢像。堂内には入れないので、遠目に見ただけだが明朝様式の異国情緒あふれる姿。
長崎の唐寺ならではの「媽祖堂」
興福寺の媽祖堂と同様、堂内には、媽祖像を中央に、千里眼・順風耳を左右に従える媽祖像が祀られている。
魚板(飯梆)
媽祖堂門にかけられている魚板。煩悩のあぶくをくわえている。歯が白く塗られている魚板は初めて見た。体も朱色が少し残っている。当初はさぞ色鮮やかだったに違いない。
魚板の下にもぐって見上げると、腹の部分に「維持天保二年」と掘られている。
天保二年=1831年、約200年前のものであることがわかる。逆側から見ると左の胴は深くえぐれており、鱗の1部がまるで取れたかのようなくぼみがある。キレイな形のくぼみなので破損ではなさそうだ。元々こういった形状だったと思われるが、こういったデザインの魚板は初めて見た。なにか謂れがあるのだろうか。そして、崇福寺は扁額が多く、通路にもかけられていた。筆に自信のある僧侶が多かったのかもしれない。
護法堂
天王殿・関帝堂・観音堂の3つの堂が並ぶ護法堂。媽祖堂と隣接して建てられており、金色の韋駄天、関羽、観世音菩薩が祀られている。扉や窓の組木細工や、柱石に施された彫刻など、細部までとても凝った作りだ。
鐘鼓楼
興福寺で見かけた旗の謎がこちらで解けた。港から見えるよう立てる旗を「刹竿」(せっかん)と言うそうで、海からの目印として立てたものらしい。写真では見切れてしまっているが、右下に小さく写っている石が殺竿石。
海からの目印の旗を掲げた「刹竿石」
船の媽祖像を揚げ卸す儀式のために、前庭には空間が設けられており、長崎港内から遠望出来るように目印の旗を立てた刹竿(旗竿)石一対が、鐘鼓楼前に残っている。
境内の説明板より
この日、崇福寺には旗は立てられていなかったので、どのような旗なのか、興福寺で見た旗を参考に掲載しておく。竹竿に五色の旗と、鯉のぼりでよく見かけるような吹き流しがつけられている。
崇福寺は長崎ランタンフェスティバルの会場ではないせいか、訪れる人の姿はまばら。境内では中国語が飛び交っていた。他のスポットから離れており、気軽に立ち寄るエリアではないせいかもしれない。
以前はランタンフェスティバルに崇福寺も参加しており、最終日の「元宵節」には燈籠祭が行われ、「元宵団子」のお振る舞いがあったとか。2024年度は境内にランタンの姿もなかったので、やめてしまったのだろうか。そのためか、位年で最も人が集まるであろう、旧正月中でも人の姿はまばらだった。
仏師・范道生の墓@崇福寺 裏山
「案内人なしでは墓碑を探すのは難しい」ということで今回足を運ばなかったが、崇福寺の裏山には、仏師・范道生(はんどうせい)の墓がある。
范道生は、京都・萬福寺の弥勒菩薩像(金の布袋像)や羅漢像などを手掛けている。そのため、崇福寺の羅漢像も范道生の作ではないかと推察されていたが、調査により、中国人仏師3名によるものだと分かったそうだ。
范道生は、父危篤の報を受けて帰国後、再度来日したものの長崎滞在を許されず。再び日本の地を踏むことのないまま、船中にて36歳の若さ亡くなった。祖国に帰ることなく、ここ崇福寺に埋葬されている。その無念やいくばくか。
終わりに
長崎県にある国宝3点のうち(うち1つは大浦天主堂)、2つがここ崇福寺にある(第一峰門と大雄宝殿)。路面電車の駅名にもなっていてアクセスが良く、見どころが沢山あるので、閑散としているのはなんとももったいないと思う。
ただ、その分、静謐な空気の中、タイムスリップしたかのような不思議な感覚を味わえる場所でもある。