隠元禅師 初登の地にして日本最古の唐寺・興福寺@長崎

黄檗宗 興福寺@長崎

日本初の唐寺にして、崇福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」の一つ、興福寺。隠元禅師が来日して初めて住持した寺で、日本黄檗宗の発祥の地と言われている。当初は「臨済正宗」と名乗っていた(黄檗宗となったのは明治になってからのこと)。

目次

「赤寺」の通称の由来・朱色の山門

長崎を象徴する「めがね橋」を通り、寺町通りに入る。風頭山の麓に寺院が並ぶ石垣沿いに歩いていくと、異国情緒あふれる壮麗な朱色の門が。

長崎ランタンフェスティバルの期間中だったので、門前には真っ赤な中国灯籠に、隠元禅師・千里眼・順風耳の巨大オブジェが飾られていた。順風耳と千里眼は、媽祖の船先案内役。媽祖廟で脇立としてよく見かける。

隠元禅師の長崎滞在中、諸国からの寄進で建てられたが、長崎大火で興福寺は全焼。現在の山門は1690年に再建されたもの。その後、原爆でも大破したが、復元された。

山門の扁額「初登宝地」「東明山」

山門に掲げられている扁額、「東明山」は寺号の由来となったもので、「祖道暗きこと久し 必ず東に明らかならん」から隠元禅師が命名した号。山門を潜ると、隠元禅師の像が迎えてくれる。中国から寄贈されたものだそうだ。

興福寺三代住持の逸然性融によって隠元禅師は招聘され、1654年63歳の時に来日。興福寺四代住持として、1年ほど長崎に滞在した。初登の地であることから、山門の背面には、隠元禅師筆による扁額「初登宝地」がかかっている。…のだが、残念なことに写真を撮ることを忘れてしまった。痛恨の極み。

境内では「隠元さんのお煎茶」という釜炒り茶も販売されている。

釜炒り茶 交流記念植樹

境内の一角にチャノキが植えられていた。2008年に茶所の東彼杵町との共催で「隠元さんの釜炒り茶文化祭」というイベントを実施。その記念に東彼杵町の茶樹を植えたもの、と説明板に書かれていた。

5月には毎年「茶市」が開催され、長崎の銘茶「そのぎ茶」の新茶による献茶式やお振る舞い、釜炒り茶の実演などが行われているらしい。

興福寺の原点。航海安全を祈願する「媽姐堂」

興福寺は、長崎へ渡来した中国人が航海安全を祈願し、1624年に中国僧の真円を庵主として、小庵を結んだことに始まる。海の守護神「媽祖」(まそ)を祀る唐寺を建立し、菩提寺とした。当初は現在のような建造物はなく、媽姐堂と仏殿のみだったと言う。南京出身者が建てたことから「南京寺」とも呼ばれていた。

本尊は、天后聖母船神で、脇立(わきだち)は赤鬼青鬼と呼ばれる千里眼と順風耳。

福建省由来の媽祖信仰

媽祖信仰は、中国宋代に福建省に起こった土着信仰。媽祖は実在の人物。天妃・天后聖母・老媽・菩薩(ぼさ)など様々な別名があり、海上の守護神として中国の沿岸地域を中心に、世界各地で広く信仰されている。日本でも、長崎だけでなく大阪や神戸の関帝廟、神奈川県にも立派な「横濱媽祖廟」がある。黄檗宗の総本山・萬福寺には媽祖堂はないため、客家独特の文化だろう。

唐船に祀られていた媽祖像は、船の停泊中は唐寺の媽祖堂に安置された。長崎ランタンフェスティバルでは、この様子を再現した「媽祖行列」が行われている。

幾多の受難ののち、再建された本堂「大雄宝殿」

1632年、二代目の住職・黙子如定(もくすにょじょう)が本堂の「大雄宝殿」を建立。扁額の「大雄宝殿」は隠元禅師の筆。大雄=釈迦の意で、御本尊は釈迦如来。左右の脇立は、準提観音菩薩と地蔵王菩薩。 

幾度も火事や天災による被害を受けており、現在の本堂は1883年に再建されたもの。原爆の爆風で大きく傾いたが、石垣に支えられ倒壊することはなく、柱を起こして再建されたと言う。

各所に見られる黄檗建築の様式

長崎ランタンフェスティバル期間中だったので、境内にはたくさんのランタンが飾られていた

屋根の上には、珍しい瓢箪形のオブジェが。火除けのまじない「瓢瓶」(ひょうへい)。

他にも、黄檗天井(龍の腹の中を表すアーチ型)や氷裂式組子の丸窓、コウモリや牡丹の意匠など、中国南方・黄檗建築の特徴が随所に見られて異国情緒が満載である。

江戸時代の黄檗池を擁する小庭園「東明燕」

大雄宝殿に向かって右手に見えるのが、三江会所門。三江会所は原爆でなくなり、門だけが残されている。

門をくぐった奥には、「東明燕」(とうめいえん)と言う小庭園がある。庭の池は「黄檗池」と言い、江戸時代に造られたもの。この黄檗池を眺めながら、抹茶と菓子をいただくことができる

雄雌一対の魚板(鰍魚)

大雄宝殿横の庫裏の入口には、日本一美しいと言われる魚板が吊り下げられている。禅寺でよく見かける飯時を告げる楽器で、「飯梆」(はんぱん)、「開梆」(かいぱん)とも言う。念願かなって見ることができた。

オスの鰍魚

魚板(オスの鰍魚)

日本に唯一残る明朝の魚板であり、「雄雌一対」は非常に珍しく、日本国内はおろか中国でも見られないとか。中国の揚子江にいる幻の魚「鰍魚」(けつぎょ)の形をしている。念願かなって見ることができた。オスは眉毛に牙もあり、魚というより龍のような顔をしている。

メスの鰍魚

魚板(メスの鰍魚)

もう1つのこぶりな魚板はメス。頭がまるく魚らしい形をしており、一見柔和なシルエットだ。しかし、よく見るとギザギザと鋭い歯をしており、凶暴そうである。なんだか魚雷のようにも見えてくる。

見比べてみると、オスのみ口から煩悩のあぶくを吐き出していた。これもなにか謂れがあるのだろうか。

上段:オス、下段:メス

楽器としての役目のため、腹には鈴のように切れ目があって、中は空洞になっている。幾度となく叩かれたのであろう、長年の使用のためか胴体は深くえぐれている。萬福寺の巨大魚版は何代目、という話も聞いたので、消耗品だったのだろう。

隠元禅師の故郷・福建省との関わり

鐘鼓楼の鬼瓦は、外向きが鬼面(厄除け)、内向きは福徳の神(大黒天像)。節分の「福は内、鬼は外」を意味しているとか。

隠元禅師の故郷・中国福建省から寄贈された「世界和平の鐘」

鐘鼓楼(しょうころう)には、「世界和平」「黄檗流芳」と刻まれた鐘が吊り下げられている。これは、2021年、中国・福建省から寄贈されたもの。太平洋戦争中、梵鐘は物資として供出され、長い間、寺には鐘がない状態だった。その状況を憂いて、福建省の萬福寺の全面協力の元、中国で鋳造し、興福寺に届けられた。

隠元禅師 東渡三百五十周年 記念碑

旗と吹き流しは長崎独特のもの。唐人が入稿の折に目印としたものとか。

大雄殿の前には、隠元禅師の東渡350周年を記念し、2023年7月に建立された記念碑があった。禅師の書「三幅対」を再現している。

「三幅対」は、興福寺に伝えられる隠元禅師の代表作。実物は、長崎市のサイトで実物の写真を見ることができる。通常拝見できないが、記念碑という形で誰でも拝見することができるようになった。隠元禅師の故郷・中国福健省の石で、中国で製作されたもの。

そばには、樹齢400年というソテツの木。この日は紅白の横断幕で囲われており、正面から拝見することはできず、よく見えなかったが、以下の文字が刻まれている。

鳥唱千林暁

慧日正東明

花開萬国春

長崎ランタンフェスティバル@興福寺

通常、夕方17:00には閉門し、本堂の内部は撮影禁止だが、この日は長崎ランタンフェスティバルのため、夜に堂内でイベントが開催されており、特別に撮影が許可されていた。ランタンの灯がともされ、日中とはまた違った雰囲気に、異国情緒が高まる。

中国伝統芸能「中国茶芸」

 「長嘴壷茶芸」(ちょうすいつぼちゃげい) 」と言う、中国伝統の茶芸。1mを超える長い注ぎ口の「長嘴壷」(長口壺や長流壺とも)を華麗に操り、茶を注ぐ。身体能力の高さたるや。

昔、中国杭州の茶館「太極茶道苑」で一度拝見したことがあるが(清朝の時代に流行したものらしく、ここでは辮髪姿の男性が茶を淹れていた)、まさか日本で見られるとは思わなかった。剣舞のような、キレのよい動きにピタッと決まる型、非常に格好良い。発祥の地である四川省には、専門の茶芸学校もあるそうだ。

中国伝統芸能「変面」

茶芸に続き、スティールパンの演奏(こちらも素晴らしかった)をはさみ、変面ショー。演じるのは、茶芸も披露した、中国国家一級俳優で「変面王」の王姜鵬さん。長崎県佐世市に「姜鵬伝統文化事務所」を構え、長崎を中心に日本全国で公演をされている。

変面は、中国四川省の伝統芸能「川劇」(せんげき)の劇内でのパフォーマンスの1つ。なので、「変面師という職業があるわけではなく、演じているのは俳優です」とのこと。

中国で演劇というと「京劇」が有名だが、川劇は中国八大地方劇(昆劇・京劇・評劇・黄梅戯・越劇・粤劇・豫劇・ 川劇)のひとつ。変面が有名なあまり独り歩きしている感があるが、四川オペラとも言われ劇ありき。面には、それぞれ龍や僧など意味があるそうだ。

変面のBGMが好きすぎて、音楽がかかっただけで満点と言いたくなるのだが、大変素晴らしかった。長崎ランタンフェスティバルの目玉の1つというのもうなずける。

面が変わるのは一瞬。早すぎて動きをとらえられない。

目の前で面を変えてくれるのだが、まったく分からない。マントや扇子で顔を隠し、一瞬で面が変わる。大きな扇子がバサッと小気味良い音を立て、講談師が絶妙の間合いで台を叩くように、よいリズムが生まれる。この扇子も演出上、とても重要な役割を果たしているように感じた。

アンコールでは「素顔に面をつける」という逆パターンも披露してくださった。こんなこともできるのか。

変面ショーのインパクトに全て持っていかれ、記憶が上書きされてしまったが、大盛りあがりの熱気で旧正月の寒さもなんのその。きっと仏様も大喜びだったに違いない。

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