以前、拝見した常滑急須の展示会「吉川雪堂展|朱泥の世界~急須の用と美~」。それから常滑焼の歴史について、気になっており、あれこれ調べながらも、「やはり現地に行かないことには」と、先日10数年ぶりに常滑に足を伸ばしてきた。
急須の街・愛知県常滑市へ
愛知県の知多半島、海に面する常滑市。中部国際空港「セントレア」ができたことで、とてもアクセスがよくなった。常滑焼の歴史は古く、「日本六古窯」の1つで、平安時代後期にはすでに窯があったと言う。
前回訪問した折は、飛行機の時間の関係でゆっくり見れなかったので、今回は早朝に向かった。まずは歴史的景観が残る、王道ルートの「常滑やきもの散歩道」へ。常滑駅から歩いて5分ほどで到着する。時間は早過ぎて店はどこも空いていないが、その代わり人の姿も疎らだ。
※日本六古窯:中世に焼物の生産を開始し、現在も生産を継続している6つの産地「瀬戸・常滑・丹波・信楽・備前・越前」のこと。
常滑の象徴「土管坂」
常滑と言えば、こちらの土管坂。ポスターなどでもよく目にする風景だ。
明治期の土管と昭和初期の焼酎瓶が、壁面一体を覆う坂道。道の表面には「捨て輪」と言う廃材が渦を巻くように敷き詰められており、坂道の滑り止めになっている。これなら雨が降っても足を滑らせることはなさそうだ。
実用とエコを兼ね揃えた、焼き物の街ならではの光景。土管の隙間からは草が顔をのぞかせていて、なんともたくましい。
登り窯「陶榮窯」
赤レンガの煙突が立ち並ぶ登り窯「陶榮窯」。1887年(明治20年)頃に築かれた窯で、現在は利用されていないが、日本で現存する登窯としては最大級なのだとか。
老朽化のためか管理人が不在のためか、窯内部の見学はできなかったが、傾斜にそって窯が造られていることが見て取れる。階段の板を支える足場にも焼物(土管?)が使われているようだ。
地元の方に話を伺った所、「昔は【常滑のスズメは黒い】と言われてね。そこら中に煙突があったから、外に洗濯物を干すと黒い煤がついて大変だった」とおっしゃっていた。ちょっと前までは、中国のお客さんが多かったけれど、最近は欧米の人が急須をよく買いに来る、とも。
国指定重要有形民俗文化財 登窯(陶榮窯)
常滑の登窯は江戸時代、天保5年(1834年)に鯉江方寿の父、方救が真焼け物を効率よく生産する為に導入したのが始まりといわれています。
江戸期の主流であった鉄砲窯(大窯)では、真焼け物を効率よく生産することが難しいため登窯の導入は画期的な出来事でした。
この陶榮窯は明治20年に建築願いが愛知県知事に出されており、その頃に築かれた窯であることがわかりました。当初の窯は、薪や松葉で窯を焚いていましたが、明治30年代の後半になると第一室目の焼成に石炭が使われるようになり、折衷式と呼ばれる登窯が常滑では一般的になってきました。
陶榮窯も、その頃に折衷式登窯になったと推定されます。したがって現在残っている窯は、明治末期の姿をとどめていることになります。
約20度の傾斜地に八つの焼成窯を連ねた陶榮窯は、全長22M、最大幅9.6M、最大天井高3.1Mと大型の登窯の部類に属しますが明治末期の常滑では、このような登窯が60基ほどもあったと記録されています。
その後、常滑では石炭窯が一般的となり登窯の数は急速に減り現在ではこの陶榮窯が残るだけとなりました。そして、この窯も昭和49年1月の窯出しを最後に操業を停止し昭和57年に重要有形民俗文化財として指定され保存されることになりました。
陶榮窯の案内板より
案内板には記載されていなかったが、窯が廃れた背景には、煤煙による公害問題もあるのだろう。レンガの煙突は常滑焼の全盛期を象徴するもので、歴史的な産業遺産であり、風光明媚な地を象徴でもあるが、当時は公害の象徴でもあっただろう。そう考えると少し複雑な気持ちになる。
とこなめ陶の森 資料館
今回の旅の目的の1つ、常滑焼のすべてが分かるという触れ込みの公共施設「とこなめ陶の森」へ。
常滑駅からは歩いて約30分ほど。近隣にある「INAXライブミュージアム」からは徒歩10分弱で到着する。「とこなめ陶の森」には資料館・陶芸研究所・研修工房の3施設があり、いずれも無料で入館できる。まずは資料館へ。
2021年、急須の展示コーナーが新設
とこなめ陶の森 資料館は、2021年にリニューアルオープンし、急須の展示コーナーが新設されている。これは見に行かねば、と馳せ参じたが、朝早いせいもあったか、貸し切り状態だった。どうも自分が訪問する行き先は、このパターンが多い。
常設展では、常滑焼1000年の歴史を紹介。平安時代の古常滑の大甕や壺や、江戸時代~近代の急須などが展示されているほか、映像による解説もあって分かりやすい。体験コーナーやクイズや配布資料もあり、子供も楽しく学べるよう工夫が随所に感じられる。
常滑焼の歴史。急須生産の始まり
常滑焼は、古くは平安時代、壺や甕などの生活用品から始まり、江戸時代には茶碗や花生けなどの茶器や、ろくろを使った陶器作りが始まる。 常滑焼の代名詞とも言われる朱泥急須が生まれたのも、江戸時代末期だ。
江戸後期に急須作りが始まる
以前、急須の歴史はこちらの記事で紹介したが、 江戸時代後期に京都を中心に文人趣味が広まり、煎茶が流行する中、1800年頃、常滑でも江戸後期に急須作りが始まる。
江戸後期ころから流行しはじめた煎茶は末期になって一層盛んになってきました。
常滑では稲葉庄左衛門という人物が古い急須の絵を集めた本を入手して文政年間に作り始めたとされています。
その後、天保年間に二代伊奈長三が板山で白泥土を発見し、その土に乾燥させた海藻を乗せて焼く「火色焼」を開発しましたが、この藻掛けの急須が江戸の遺跡で出土しています。さらに幕末の安政元年には杉江寿門堂が朱泥急須の創出に成功しました。
とこなめ陶の森 資料館 陶芸研究所・研修工房
※ 稲葉庄右衛門(いなばしょうざえもん) : 稲葉高道(初代。 1778-1839 ) 、庄左衛門は通称で、江戸時代後期の陶工。
江戸後期、「白泥焼」「火色焼」「朱泥焼」が完成
1840年、二代目・伊那長三により、「白泥焼」「火色焼」(藻掛け焼とも)が始まる。海藻の塩分が緋色に発色することで、1点1点異なる模様ができる。海辺の町ならではの技法だ。
1854年には、初代・鯉江寿門らにより「朱泥焼」が完成。鉄分の多い土を使うことで、赤く発色させることに成功。常滑焼急須の原点だ。朱泥の方が、白泥焼や藻掛け焼きよりも後とは知らなかった。
柔らかな「赤物」と硬い「真焼け物」
陶榮窯の案内板で「真焼け物」という記載があり、なんだろうと気になっていた後で調べた所、江戸時代の常滑焼には、「赤物」と「真焼け物」(まやけもの)の2種類があったそうだ。
- 真焼け物:硬く焼き締まった焼き物。甕や壺が中心。江戸時代後半になると、急須や徳利などが加わる
- 赤物 :柔らかな素焼きの焼き物。火消し壺・焜炉など、中に火を使う道具が多い
「真焼け物」という言葉は今ではあまり聞かないが、炻器のことを指すのだろう。高温焼成が必要な硬い炻器の急須誕生には、登窯の導入が必須であったことが分かる。
とこなめ陶の森 資料館では、ちょうど赤物と真焼け物と思われる江戸時代の急須が展示されていた。並べて見ると、その違いは一目瞭然。ぽってり素朴な赤物に、滑らかでシュッとした真焼け物、地肌の表情やラインがまるで違う。
こちらは急須の名工、初代・松下三光(1806~1869年)によるもの。室町幕府に伝わる「足利家茶瓶四十三品図録」の作り手の1人。左の「赤南蛮写横手急須」はボーフラにルーツを持ち、文人画家の椿椿山が所望したという記録が残っているとか。
常滑急須は、中国の「紫砂茶壺」がルーツ
朱泥急須は、中国の江蘇省宜興市で作られている紫砂茶壺にルーツがある。
朱泥焼が完成した江戸から時代はくだって明治時代、中国の陶工から宜興の技術が伝来する。1878年(明治11年)に文人の金士恒が常滑に招かれ、急須の制作指導にあたる。
「とこなめ陶の森」では簡単に金士恒のみ紹介されていたが、こちらのScience Portal Chainaの記事はより詳しい。
万延・文久年間、日本常滑の医師、平野忠司は宜興紫砂陶をこよなく愛し、陶工の片岡二光、杉江寿門に紫泥を試作するよう奨励・指導し、常滑で朱泥陶器を生産するための基礎を定めた。平野忠司(1818~1900年)は今なお常滑朱泥陶の創始者として尊敬されている。
明治10年頃、常滑の陶工、鯉江高須は叩きながら継ぎ合わせて成形する宜興の技術を高く評価し、蘇州籍の紫砂の達人、金士恒と呉阿根を日本に招き、紫砂壺の製作技術を伝授してもらった。鯉江方寿、杉江寿門、伊奈長三郎、上村白鴎らがこの技術を学んだ。これは宜興壺の工芸が日本に伝わった始まりであり、彼らの作品は今なお常滑陶器館に珍蔵されている。
宜興紫砂と常滑急須(Science Portal Chaina、2011/2/22)
平野医師は煎茶を愛好しており、紫砂の茶器も所持していたとか。中国の模倣から国産茶器が生まれる流れは、茶の湯の道具とも通る。こうして、「朱泥急須」という常滑焼の基礎ができあがった。
とこなめ陶の森 資料館の急須の説明には、「今日の使い方は高遊外 売茶翁が18世紀に京都・大阪で広めたもの」と、売茶翁の功績についてもきちんと言及されていた。
今でこそ常滑の朱泥急須といえば横手型だが、宜興の茶壺は後手型だ。当初は宜興の紫砂茶壺を手本に急須を作っていただろうから、古い朱泥急須は後手なのだろうか。「とこなめ陶の森」の展示の中には、中国の紫砂茶壺と見紛えるものから素焼きの朴訥としたものまで、後手の急須が幾つもあった。
なお、この急須の関係により、常滑市と宜興市は2019年に友好都市となっている。宜興の茶壺が常滑にどう伝わり、現在の急須になったのかは、こちらの本が詳しい。2017年にINAXライブミュージアムで開催された企画展の図録で、清の時代の紫砂茶壺から、江戸から明治にかけての貴重な常滑急須の写真も掲載されている。
明治時代の常滑焼の記録(尾張名所図会)
数年後、明治13年に発行された「尾張名所図絵」(名古屋の画家、野村玉渓の画)には、急須を制作している光景が描かれている。老人とその弟子の陶工だろうか。遠く、窯焼きの煙が見える。家の外には、たくさんのカメが逆さに置いてあり、乾燥中だろうか。
カメの底がすぼまっているのは3つの理由があり、「土に埋めて使うため」「底の水をすくいやすくするため」「割れにくくするため」だそうだ。
小さくて見づらいので、拡大した図がこちら。海辺の藁葺き屋根の家で、2人の陶工がせっせと仕事に勤しむ様子が見える。ロクロを使って急須を作っているようだ。
常滑焼の急須の特徴
常滑焼の特徴は、釉薬を用いない「焼締」(やきしめ)、磁器と陶器の間の「炻器」(せっき)であること。高温で焼くことで、きめ細やかな土肌になり、陶器より硬く丈夫な器になる。
朱泥の急須
常滑焼といえば、朱泥の急須。愛知県知多半島の鉄分の多い土を使用し、酸化鉄(ベンガラ)により、キレイな朱色が生まれる。常滑焼の急須は、購入当初はマットな質感だが、使い込むほどにツヤが出てくることも特徴の1つ。
藻掛け焼(火色焼)
常滑焼のもう1つの特徴は、海辺の街ならではの技法「藻掛け焼」。1つとして同じ模様にならない1点物。
常滑急須の製造工程
宜興茶壺も常滑急須も、「釉薬をかけずに焼く」という特徴があるが、製造工程には大きな違いがある。とこなめ陶の森では、急須の製造工程を紹介した動画を投影しており、Youtubeでも視聴できる。
タタラではなく、ロクロによる成形
紫砂茶壺はロクロを使わず、板状にした土を型に当て、叩いて整形する「タタラ造り」(パンパン製法とも)。
一方、常滑の急須は、元々はカメや壺などと同じヒモ造りだったが、その後はロクロによる成形。中国宜興の叩きによる伝統的な製法は、伝来したものの根付かず、元のろくろを使った製造方法に戻ったという。
胴体・蓋・注ぎ口・持ち手・茶こし部分と、それぞれのパーツが別々に作られ、1つになってぴっちりと合う。
急須作りの最中は、土が乾かさないよう、エアコンも扇風機も使えない。成形には水も多く使うので、手がかじかむ。夏暑く冬寒く、とても大変な仕事だという。パーツが組み合わされ急須が形になったら、乾燥の後に次は焼成だ。
焼成前と後の急須
こちらは以前、東京で拝見した雪堂急須展より。左が焼く前、右が焼いた後の急須。
焼成による急須の収縮具合が、とても分かりやすい。窯で焼かれると収縮するので、2割ほど小さくなる。収縮しても、蓋と本体がピタリと合う。まさに職人技。尚、こちらの雪堂急須は、急須を焼く前に磨きをかけているので、表面につやがある。
知識としては知っていても、現地に赴き、実物を見ると、やはり理解がとても深まる。
すっかり長くなってしまったので、まずはここまで。常滑編、次回に続く。