新緑の関西に足を伸ばし、先日、黄檗宗 廣智寺にあるお家元のお茶室見学に行って参りました。
黄檗宗 曇華山 廣智寺
廣智寺(広智寺)は、聖徳太子の開創と伝わるお寺で、正式名称は「優雲波羅華山 観音廣智勝幢禅寺」(うどんばらげざん かんのんこうちしょうとうぜんじ)。とても長い名前で、摂津国 第二十六番霊場です。
- 住所:〒569-1117 大阪府高槻市天神町2-1-3
- 交通:阪急「高槻市駅」より徒歩10分、JR「高槻駅」から徒歩20分
本尊「多臂観世音菩薩立像」
ご本尊は、腕が8本ある「多臂観世音菩薩立像」(たひかんぜおんぼさつりゅうぞう)。
かつては「十一面観音像」と呼ばれていたそうですが、平成の修復作業の際、11面は江戸時代に後からつけられたもので、元々は1面の顔に八本の腕を持つ「不空羂索観世音菩薩像」であることが分かったそうです。
高槻市の文化財調査報告によれば、国内で数少ない一木彫(カヤ材)の古例で、九世紀頃に作られた仏像と考えられています。「神奈川仏教文化研究所」のサイトにとても詳しい説明がありましたので、参考にリンクを載せておきます。
- 古仏探訪~大阪高槻市・廣智寺の多臂観音菩薩立像(観仏日々帖)
廣智寺の来歴
廣智寺は兵火に遭うなどの紆余曲折を経て、日本人初の隠元の嗣法者・龍渓性潜(りゅうけいしょうせん)が開山となって再興し、本日に至っています。
歴史を紐解くと、高槻近辺は、キリシタン大名の高山右近に焼き払われた寺院が数多くあります。断絶し、詳しい来歴が分からなくなっていることが残念です。
年代 | 出来事 |
年代不明 | 聖徳太子により開創 |
1578年(天正6年) | 高槻城主の高山右近にキリスト教改宗を迫られるが、応じず、諸堂宇を焼き払われる。この時、本尊の観音像を里人達が運び出し、難を逃れたと伝えられる |
1661年(寛文元年) | 城主・永井直清の発心により、黄檗僧の龍渓性潜が開山となり黄檗宗の寺として再興。その後、弟子の独量や櫟隠(れきいん)禅師が後を継ぐ |
1673年(延宝元年) | 櫟隠が本堂や方丈などの諸堂宇を建設し、寺名を「廣智禅寺」に改称 |
1993年(平成5年) | 本尊の「多臂観世音菩薩立像」が、大阪府の有形文化財に指定される |
江戸時代の寛政8年~10年に刊行された摂津国の観光案内書「摂津名所図絵」(秋里 籬島 著、竹原春朝斎 画、1796~98年)に、廣智寺の記述がありました。
現在は周辺に住宅地が広がり、百貨店や大型病院がありますが、この頃は山に囲まれ、平地は畑で近隣に家屋はない静かな地であったようです。
曇華山 広智禅寺(どんげざんこうちぜんじ)
上田邊辺村にあり。禅宗黄檗派。
本尊十一面観音 聖徳太子御作。当寺開祖は上宮太子なり。上古は講堂巍々たり。天正の兵火に罷って荒廃す。
中興正統竜渓禅師 禅師の弟子独量和尚相継いで仏殿を営む。其後櫟隠禅師 住山して方室・鐘楼を建立す。故に又此禅師を後の中祖とす。鎮守弁財天 弘法大師の作なり。 三摩地 総門に掲くる額なり。隠元和尚の筆
慈恩堂 仏殿の額。隠元の筆 旁通 同じ所に掲くる。即非の筆
※「摂津名所図絵」(巻之五 大阪 下)(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
黄檗売茶流 高槻教室
廣智寺は小高い所にあり、入り口はなかなかの石段が続きます。お茶会の時、お道具一式を持って、この階段を上り下りするのは大変そう(特に雨風の強い日ば…)と思った所、エレベーターが設置されていました。
昔エレベーターのなかった時代には、お茶会の時に茶道具運搬の方を雇ってお願いしていた時もあったとか。
石段を上って中国風の総門をくぐり、更に石段を上ると、正面に龍の口から水が注ぎ出る手水鉢、右手に本堂があります。お茶室にお邪魔する前に、まず本堂にてご挨拶を。
左手に曲がり、お城のように石垣のある白い塀沿いに進むと、黄檗売茶流 高槻教室の稽古場があります。
稽古場の外観
玄関前には、朝顔棚と据え置かれた睡蓮鉢。水蓮の蕾が膨らみ、そろそろ花開きそうな佇まい。
玄関をくぐると、右手には生花、正面は若宗匠の絵と門標(許状取得の証である看板)が飾られていました。
応接間には、滋賀県大津の民俗画「大津絵」の描かれた額と立派な大壺が。
大津絵は、ユーモラスな絵に様々な含蓄があって面白いです。書籍「大津絵 ~民衆的風刺の世界」(クリストフ・マルケ著、角川ソフィア文庫)は、大津絵の歴史や図版が分かりやすくまとめられていて、おすすめです。
そういえば、昨年の萬福寺の月見茶会のお茶席のお軸も、大津絵でした。滋賀県の三井寺(園城寺)の近くには「大津絵美術館」「大津絵のお店」があります。今度、訪れてみようと思います。
ぐるりと回廊があり、どこからでもお庭を拝見することができます。
中庭を四方に囲んで建物を配置してあるので、四合院形式でしょうか。お茶室と応接間が、中庭をはさんで向かいあっています(写真左の建物がお茶室、右が応接間)。
庭には池に小川が流れており、さらさらとせせらぎが聞こえてきて別世界でした。応接間からは茶室が舞台のように見え、コンサートを開いたこともあるとか。
お茶室の内部
お茶室は、畳敷の和室ではなく、板張りのモダンなお部屋でした。この日、床の間にかけられていたお軸は、「平常心是道」。
建築の知識がないもので、詳しい仕組みは分からなかったのですが、茶室の天井を吊り下げており、だんだんと天井が下がってくるので、定期的にあげているとのことです。
茶室上部にはお家元のおじい様、黄檗宗 萬福寺 第52代管長の道元仁明猊下の筆で、「黄檗売茶流」の額が掲げられていました。
他の流派のお茶会でも、道元猊下のお軸を拝見することがあります。ちなみに、お茶会でよく使われる大正園茶舗さんの玉露に「黄檗の露」の茶銘を付けたのも、道元猊下とのこと。
お茶室は床の間を中央に左右対称となっており、右手には木彫りの売茶翁像が。微笑みを浮かべており、伊藤若冲の描いた肖像画と比べて、随分とおだやかな表情です。
廣智寺の稽古場では、売茶翁像に一礼し、ご挨拶してから稽古をする習わしなんだそうです。
茶室見学の後は場所を移し、若宗匠を囲んでの食事会。鎌倉から駆け付けた社中一同に、関西の先生方を交えての団らんの時間、とても楽しく充実した時間となりました。
- 水屋でのお茶の淹れ方、黄檗売茶流のお手前の型の考え方
- 稽古はお手前から始まり、水屋・受付と段々と後ろに下がっていくこと
- お家元が、初煎会で、煎茶のお家元として最後のお手前の席で話したこと
- 若宗匠が来年お家元になるにあたり、家元を継ぎ、流をつなぐ理由
など、色々とお話をお聞きし、煎茶道の本質は「相手を尊重し、慮ること」であるとしみじみ感じました。とても実り多き茶旅でした。