煎茶道のお茶会では、おなじみの玉露。とろりとした濃厚な旨味と出汁のような旨味。日本茶の最高級品であり、贅沢な緑茶です。そんな玉露は、いつどこで生まれたのでしょうか。
玉露とは?どこでどのように生まれたか

玉露とは、茶葉を摘み取る前に日光を一定期間遮り、新芽だけで作られた日本茶です。覆いをすることにより、海苔のような独特の香りと旨味が生まれます。しかし、その発祥については謎が多く、諸説あります。
【説1】 茶商「山本山」6代目の嘉兵衛が、宇治の焙炉場で偶然発明
最も有名なのは、 天保六年(1835年) 、江戸の茶商「山本山」の6代目、山本嘉兵衛(徳翁)によって発明されたという説です。 山本山と言えば、永谷宗円が開発した「青製煎茶」を江戸で販売し、煎茶を広く世に広めた茶商です。明治時代に発行された「茶業通鑑」によれば、山本が茶葉を露のように丸く焙り、「玉露」の商品名で販売したのが原型と言われています。
茶業通鑑の記録 「 玉露製茶の濫觴」

「茶業通鑑」( 村山鎮 著、明治33年)には、詳細な記載が残されています。嘉兵衛(当時18際)は、久世郡小倉村の木下吉左衛門の家に泊まっていました。木下の焙炉場では碾茶の製造を行っており、蒸した茶葉を炉の上で攪拌させ、乾燥させる工程の真っ最中でした。
山本は、焙炉師が乾燥の工程で使っている道具「さらえ」(※)を使わず、素手で茶葉を撹拌した所、上手く碾茶にならず、団子のように丸く固まってしまいました。しかし、飲んでみると香りも味もよく、これが玉露の原型となった、という説です。
※さらえ: 「焙炉師」が使う竹製の熊手のような道具。蒸した茶葉をさらえでかき混ぜてならし、乾燥を促す。「めんざい」「ネン」とも言う。
山本はこの失敗作を東京に持ち帰り、改良を加えたのち 「玉の露」(たまのつゆ)と名付けて販売。煎茶と異なる独特な甘みの「玉の露」は評判となり、これが「玉露」の始まりと言われています。「茶業通鑑」 は60年以上後に書かれた記録なので、信ぴょう性は定かではありませんが、 かなり具体的に書かれていますし、最も有名な説です。
玉露製茶発祥之碑@宇治市小倉町
宇治市の小倉町はこの説を採用し、「 玉露製茶発祥之碑」が建立されています。
玉露傳記
山城盆地巨椋池の周辺は地味肥沃にして古來宇治茶の名産地なり。
而して玉露は天保六年 六世 山本嘉兵衛徳翁が小倉 木下吉左衛門家の煎茶場にて試作し、江戸に持ち帰り、「玉の露」と銘名して諸侯伯に贈り賞賛を博せしに始まる。
其の後、小倉江口茂十郎 苦心の末「玉露」の名を持って賣出したるが、喫茶家の嗜好に適い、其の需要全国に広まる。特に小倉産の玉露はその香味優秀を以て内外に聞え、今日に至れり。
玉露製茶発祥之碑(昭和45年 小倉茶業会)
【説2】 小川可進の求めにより、宇治の茶師・上坂清一が開発

2つ目の説としては、煎茶道 小川流の祖・小川可進が、宇治郡木幡村(こはたむら)の茶師・上阪清一(こうさかせいいち)に依頼し、開発したと言われています。この説の出典は「宇治郡誌」 (京都府宇治郡 編、大正12年) です。こちらも後世の記録です。
天保五年 京都を中心として煎茶大いに行わる。
京都の人 煎茶宗匠 小川可進なる者 碾茶製の折物を採りて 白折と銘じ之を賞味す、然れども産額僅少なるを以て之を清一(※上坂清一)に謀る。
清一専心考慮を回らし遂に碾茶園の生芽を摘採し香気佳にして味甘く頗る嗜好に適せるもの八百目を製造し可進翁に送る。之れ今日の玉露の濫觴なり。
宇治郡誌(京都府宇治郡 編、大正12年)
「玉露の濫觴」という記載は、先に発行された「茶業通鑑」の影響でしょうか。 碾茶の生芽を使って作ったことが書かれています。
- 玉露ができたのは天保5年(1834年)
- 小川可進が「白折」という碾茶を愛用していた
- この茶が手に入りづらいので、宇治の茶師・上阪清一に依頼
- その結果、碾茶の生芽からできあがったのが玉露だった
小川可進(1786-1855年):江戸時代後期、京都の医者の家系の生まれで御典医。50才で医者を廃業し、煎茶家に。 「茶は渇を止むるに非ず、喫するなり」 と煎茶の普及に務め、煎茶道 小川流を創設した(初代・小川後楽)。著作に「喫茶弁」がある。
【説3】 大阪の竹商人の提案で、木幡村の一ノ瀬が開発

3つ目の説は「大阪の竹商人の提案で、木幡村の一ノ瀬という人が玉露を開発した」というもの。宇治茶の産地「木幡村」 の茶師が発明したという点では、説2と同じです。説1では小倉村でしたが、木幡村の可能性も高いかもしれません。
玉露の由来
問 玉露と云茶は如何の茶にて何故玉露と申そ譯でム
答 玉露は覆をせし茶の總名でむ。今より40年足らず先より始りたる茶にて、其由来は去る頃、大阪は竹商人某と云者 折々宇治に来り濃茶薄茶を製するを見て、ふと心附 此葉を以て煎茶の製せん事を、木幡村の一ノ瀬と云人の頼み製せしめしふ。
元来 肥え物の沢山の仕込たる茶なるが故に 揉む時分に手の内の粘ばり附き 葉は盡く丸く玉の様に出来上りたるを、其侭 急須に入れ試みしに賽ふ甘露の味ひを含めり。
是より追々此製世の廣まりたると 其始め玉の様にて 甘味なるを以て誰れ言と無くたまのつゆと名附けしことを今は音讀して玉露と名附けし譯でしム
「茶園栽培問答」( 明治7年11月) ※注釈:読みやすいように句読点を追加しています。
茶葉を揉むうちに玉のように丸くなり、急須で淹れて飲んでみたら甘露の味わいだったので、「たまのつゆ」と名付け、音読みして「玉露」となった、といいます。 1875年起点で40年足らぬ前とあるので、時期は1835~6年頃ではないかと思われます。
この説の出典は、「茶園栽培問答」(明治7年、 新川県 編)です。 新川県(にいかわけん)は現在の富山県で、当時、茶栽培が盛んになっており、県令の山田秀典が製茶政策を進めていました。 この書は茶栽培の教科書で、同県の茶園の人々が、宇治から招いた製茶の教師に質問し、 「茶の実の蒔き時」や「二番茶の摘み方」など、 問答形式で茶栽培のあれこれを記録したものです。
牧野富太郎博士の見解
植物学者の牧野富太郎の随筆集「植物一日一題」に「茶の銘 玉露の由来」の記載があり、この説が取り上げられていました。牧野博士によれば、別の説もあるが「茶園栽培問答」の方が真実であるように感ずる、とのことです。
しかるに大槻文彦博士の『大言海』には「ぎョくろ 玉露 製茶ノ銘、上品ナル煎茶ノモノ 文化年中ヨリ、山城宇治ニテ製シ始ム、其葉ヲ蒸ス時、上ニ新藁ヲ覆ヒトシ、ソレヨリ滴ル露ヲ受ケテ、甘味ヲ生ズト云フ」とあって、その玉露の語原がいささか前説とは違っている。
これはいずれが本当か。そしてこの『大言海』の説はなんの書から移したものか今私には分らないが、その玉露の語の原因はどうも前説の『茶園栽培問答』の方が真実であるように感ずる。
「植物一日一題」(牧野富太郎著、ちくま学芸文庫、2008年2月刊)

【説4】宇治の茶師・松林長兵衛が発明
この他にも「朝日焼を復興した松林長兵衛が発明した」など、 様々な説があるようですが、こちらは原典を確認できませんでした。他家の焙炉場で作られたという点は、説1と類似しています。
- 天保元年(1830年)、宇治の茶師・松林長兵衛が、焙炉場を火事で失い、苦し紛れに他家の煎茶焙炉で製造した茶を、玉露と名付けた(こちらのサイトによれば、この説は上林柏堂の「玉露の沿革」に書かれているそうです)
松林長兵衛(?-1877年): 幕末~明治時代の宇治の茶師&陶工。文久元年(1861年)に一時途絶えていた「朝日焼」を再興し、 伊東陶山(初代)らと酒器や煎茶器などを作陶した(※朝日焼:宇治の遠州七窯のひとつ)。尚、「朝日焼の系図」では八世長兵衛となっている。
まとめ

玉露がいつ・どのように生まれたのか。
焙炉場でのアクシデントをきっかけに偶然生まれた説、煎茶家や商人のオーダーにより開発した説など諸説あり、どれが本当のことなのか、今となっては確たる証拠がなく分かりません。 元祖論争は古今東西よく見られるものですし、古い歴史のあるものは、発祥のわからないことが大半です(往々にして後世に作られた逸話も存在し、発祥を解明することは困難)。
ただ、 江戸時代後期・天保年間(1830年~1844年)に、京都の宇治で玉露が生まれたことは確かなようです。 煎茶が発明されたのは1738年と言われていますので、玉露は煎茶の約100年後に生まれたことになります。尚、玉露が現在のような細い棒状に改良されたのは、明治初期のこと。製茶業者の辻利右衛門(1844-1928年。辻利兵衛)によって製法が確率されたそうです。
ふと思うのは、 中国茶でも「団揉」という工程で、丸めて球状に仕上げる茶があります。特定の個人の発明というよりも、煎茶の普及に応じた高級茶の開発競争の中、複数の茶師や製茶場による試行錯誤や改良の結果、玉露が生まれのかもしれません。
玉露の由来の年表
年 | 玉露の由来 |
---|---|
天保元年(1830年) | 【説4】宇治の茶師・松林長兵衛が発明 |
天保05年(1834年) | 【説2】煎茶家の小川可進&宇治の茶師・上坂清一が開発 (木幡村) |
天保06年(1835年) | 【説1】山本山6代目・山本嘉兵衛が宇治で発明(小倉村) |
天保06年頃?(1835年) | 【説3】大阪の竹商人&宇治の茶師・一ノ瀬が開発 (木幡村) |
明治07年(1874年) | 「茶園栽培問答」に【説3】の記録あり |
明治33年(1900年) | 「茶業通鑑」に【説1】の記録あり |
大正12年(1923年) | 「宇治郡誌」に【説2】の記録あり |