売茶翁の仙台での師「月耕 道稔」

黄檗宗 開元山 萬寿寺@仙台

売茶翁は22才から26才の4年間、仙台の萬寿寺・月耕道稔禅師のもとで修行しています。月耕禅師について、分かっていることをまとめました。

※上部の画像は、月耕 開山の「黄檗宗 開元山 万寿寺」(宮城県仙台市)。

目次

月耕 道稔について

月耕道稔(1628-1701)は、尾張出身。俗姓は太田、道号は月耕(げっこう)。月畊とも。諱は道稔(どうにん)、もとは宗親。号は亀毛子。

15才の時、宮城県松島の「青龍山 瑞巌寺」の中興の祖・雲居希膺(うんごきよう)禅師が、岐阜 瑞龍寺の復興の為、瑞龍寺に逗留していた時に弟子となり、出家します。

31歳の時、仙台藩三代藩主・伊達綱宗公の推挙によって、妙心寺の第一座となります。

瑞巌寺末寺の「永安寺」住持となる

僧月耕「仙台史伝」(鈴木省三 著、明治25年)
僧 月耕伝「仙台史伝」(鈴木省三 著、明治25年)

雲居が仙台藩主・伊達綱宗に迎えられて「松島 青龍山 瑞巌寺」(宮城県松島)に住したので再び参禅し、綱村の帰依を受けて、20年間ほど瑞巌寺の末寺である「永安寺」の住持となります。

僧 月畊傳
月畊名は道稔 亀毛子と号す。尾州名古屋 太田氏の子なり。寛永5年9月1日を以て生る。天資類(?)異幼にの父を失へ慨然仏に帰す。瑞巌雲居の美濃の瑞龍より蹄るに遇い、興に東の松島に到り修道す。二十五武州目黒不動に祈り應験あり。

再び松島に蹄り雲居の寂するに遭い、遺命により乾徳山 永安寺に住す。綱村公これを聞き〇て妙心寺 第一座となす。

曾て黄檗に登りて法を木庵に問い、延宝中仙台に到り、延壽山 安養寺の〇址に茅盧を結て之に住す時に、綱村公仏を信ず月畊を延て法を聞き、城中に禅堂を設け、之に居らしめ、政暇を以て参禅す。公後城東に於て一巨刹を創し、月耕を乞いて開祖となす。開元山 万寿寺 是れなり。元禄14年正月1日、瑞坐して化滅す。年74。

僧元昭禅機を会し奇行あり。弱冠法を月耕に問い萬壽寺にあり。後高遊外と称し、茶を売る賣茶翁是れなり。

仙台史伝(鈴木省三 著、明治25年)

黄檗宗に転じ、万寿寺の開山となる

その後、50才の時、萬福寺に登り、萬福寺第2代住持・木庵性瑫禅師に参禅して弟子となり、黄檗宗に転じ、木庵禅師の法を嗣ぎます。その後、仙台に帰り、仙台藩4代藩主・伊達綱村の帰依を受け、「開元山 万寿寺」の開山となります。

  • 黄檗宗 開元山 万寿寺(宮城県仙台市青葉区高松2-14-18)
1628年(寛永5年)9月1日生まれ。尾張出身
1643年(寛永20年)雲居禅師の弟子になり、出家する。雲居のもと、松島の瑞巌寺で修行をする
1661年(寛文元年)仙台藩四代藩主・伊達綱村公の推挙により、妙心寺第一座となり、
瑞巌寺 末寺の永安寺の住持となる
1677年(延宝5年)雲居の寂後、50才で萬福寺に入り、黄檗宗に転じる
1679年(延宝7年)黄檗第二代・木庵禅師に嗣法する
1680年(延宝8年)仙台に帰り、引き続き仙台藩主・伊達綱村の帰依を受ける。この頃、安養寺に庵室を構える
1682年(天和2年)月耕のために、伊達綱村は城中に「知至」という禅室を用意する
1686年(貞享3年)万寿寺開山までの11年間、安養寺旧址の草庵に住む
1696年(元禄9年)伊達綱村公の正室・仙姫の菩提所の万寿寺を開山
1697年(元禄10年)月耕の万寿寺に月海(売茶翁)が掛錫する。以後4年間、月耕の元で修行する。
この年、京都の萬福寺を模した黄檗宗 大年寺@仙台が開山。
 1701年(元禄14年)1月1日、74才で死去。墓所は現在の万寿寺(旧三味院)

ちなみに、宮城県に伝わる民間伝承「皿屋敷」にも月耕が登場しています。

皿屋敷

仙台城 二之丸 裏門通と中坂通の十字路西南角の屋敷。二代藩主忠宗のとき、家宝の皿10枚のうち1枚を割った女中が手討ちにあい、井戸に投げ込まれる。夜な夜な皿を数えて泣く声がし、侍の家に変事が起こって死に絶え、屋敷は荒れ果てる。大年寺二世の月耕禅師が四代綱村に願って隠居屋敷としてから、怪はやむ。

宮城縣史|民俗3(財団法人宮城県史刊行会、昭和31年)

月耕和尚の草庵

万寿寺の開山まで、月耕和尚は旧安養寺址の草庵に住んでいました。

「仏光山 大蓮寺」の境内にある石碑「業蓮社良清 大願坊 清念大徳」には、月耕和尚が安養寺の旧址(仙台市宮城野区安養寺)の近くに居を構えていたことが記されています。

  • 曹洞宗 仏光山 大蓮寺(〒983-0833  仙台市宮城野区東仙台6丁目13-26)

安養寺旧址の付近「五智」の地

「郷土研究としての小萩ものがたり」によれば、月耕和尚の草庵はかつて「五智」と呼ばれた地にあったそうです。売茶翁が訪れたという記録は見つかりませんでしたが、月耕を訪ねて足を運んだ可能性はあります。

大蓮寺の裏山から峰伝ひに西へ七丁(※約764m)、向小田原丘陵上なる大木皿家の屋後、垣を続らした一園ひの杉林が、その五智でした。

杉林の杉は百年足らずのものと見ましたが、その間に建物のあったらしい址がはっきりと見え、池の跡らしい水溜まりも残っていました。堂の址らしいところは、東西五六間、南北十間ばかり、丘卓を西に負い、東向きの堂だったらしく思われました。

ここが元と安養寺月耕の址で、後に大願、次いで青蓮の居た地と分かりましたが、しかし、之は古安養寺の本址ではないのです。

郷土研究としての小萩ものがたり(藤原相之助 著、昭和8年)

上記の記載から、月耕の草庵がかつてあった場所(安養寺旧址付近の五智)は、特別養護老人ホーム暁星園~宮城県済生会こどもクリックの辺りではないかと思われます。

月耕の草庵がかつてあった場所(安養寺旧址)

月耕亡き後は「五智如来堂」となる

月耕和尚の死後、月耕の屋敷は大願坊という僧が賜り、五智如来を安置して「五智如来堂」となりました。大願坊の死後は青蓮坊という僧が住持し、五智如来堂の一切は「仏光山 大蓮寺」へ移されたそうです。

(大願坊は)松島の天嶺和尚により太守吉村公に御目見えを遂げ、御願ひの結果、安養寺 月耕和尚の屋敷を賜はり、そこに丈六の五智如来を安置して、二大願を果し、享保12年極月16日66歳で正念往生したといふのです。(中略)

大願坊は、小田原村なる古安養寺月耕和尚の屋敷を五智如来堂として、大蓮といふ小寺を営み居つたので、そこに是等のものがあり、大願の殉した後は、青願坊といふものが、其の住持となっていたのです。(中略)

此案内の大蓮寺は、大願坊殉後24年後の賽暦2年(2412)に仙台北山輪王寺の獨否和尚により曹洞宗の大蓮寺として再興されたのですが、賽暦11年(2421)に至り五智の大蓮の住持の青蓮が、五智の一切のものを此案内の大蓮寺へ移して来て両寺合併したものだといひます。

郷土研究としての小萩ものがたり(藤原相之助 著、昭和8年)

安養寺旧址

伊達綱村公は、月耕のために仙台城の中に禅室を用意しました。月耕は辞退し、安養寺旧址の草庵に住み続けたと言います。ただ、「仙台史伝」では城中の禅堂に住んだとあり、後に招きに応じたのかもしれません。

安養寺について、仙台市宮城野区安養寺の住民による大堤町内会が、歴史書や石碑などを調べた成果を「安養寺物語」としてまとめています。

また、東北新聞の記者にして考古学で有名な藤原相之助は、著書「郷土研究としての小萩ものがたり」(藤原相之助 著、昭和8年)の中で「古安養寺研究」を記しています。

旧安養寺@仙台
赤い点線で囲まれた地域が、旧原町小田原安養寺。英字は窯跡。※出典:安養寺物語(大堤町内会)

奥州・藤原氏の菩提寺

これらの資料によれば、安養寺は、平安時代末期に奥州藤原氏の家臣が建立したお寺で、藤原氏滅亡後に出家した藤原秀衡の孫娘の安住の地でした。安養寺は藤原時代には大伽藍を成し、仏光山と称したと言います(※延壽山と記載されている文献もあり)。

姫は成長の後、「安養院 蓮室妙善」と称し、藤原氏に縁のあった安養寺に移り、藤原家の菩提を弔いました。安養院の死後、安養寺は廃れ、400年後の江戸時代初期に再建されましたが、再び廃寺となりました。

月耕は廃寺となった後(1680年)に、安養寺付近に居を構えています。

  • 安養寺旧址(〒983-8032 仙台市宮城野区安養寺)
1189年
(文治5年)
頼朝の平泉征討の時、藤原秀衡の三男・和泉三郎忠衡の娘(5歳)を、
家来の「石塚民部守時」と妻「小萩」が護り、加美郡色麻村(現:色麻町)の清水寺に身を寄せる
1205年
(元久2年)
仙台福沢の尼寺に移る
平安時代末期奥州藤原二代基衡の臣、佐藤荘司治信が安養寺を開基(宮城野区安養寺)
※時期不明藤原秀衡の孫娘の姫が「安養院 蓮室妙善」と称する
※時期不明安養院が安養寺に移り住み、藤原氏の菩提を弔い、安住の地とする
※時期不明安養院が死去し、安養寺は廃れる
1600年頃
(慶長初期)
松音寺 第7世霊堂文徹和尚が、安養寺の復興に当たる
1608年
(慶長13年)
寺が焼き討ちに遭い、聖徳太子像を背負って天神囲に逃れる。
「泰盛山 安養寺」(青葉区下愛子舘)として開山

安養寺旧址の本址の場所

安養寺旧址の本址は、宮城県仙台第三高等学校の第二グラウンド付近だったようです。

近隣には平安時代の窯跡「安養寺中囲窯跡」があり、この一帯は宮城県保有の緑地保全地帯ですが、処分対象地として売却予定です。

  • 五智と思われる地帯(〒983-8032 仙台市宮城野区安養寺三丁目20)

安養寺近隣の環境

与兵衛沼
与兵衛沼。「杜の都緑の名所100選」として、緑地景観が保全されている。

安養寺と万寿寺との間には、「与兵衛沼」(よへいぬま)という沼があります。

この沼は、江戸時代の寛文11年(1671)に仙台藩士の鈴木与兵衛が私財を投じて造った灌漑用水用の人口沼です。藩主の伊達綱村公がその功を賞賛して「与兵衛堤」と名付け、今に伝わっています。

月耕が万寿寺の開山となり、売茶翁が仙台を訪れた時には既に完成していました。

与兵衛沼の白鳥
毎年冬になると、白鳥が羽休めの為に飛来してくる。

安養寺近辺には、江戸時代につながる情報や面影はなかなか見つからないのですが、与兵衛沼は、開発の手を逃れて景観が保全されており、往時の面影を今に伝えています。

尚、与兵衛沼&安養寺の付近は古代の窯跡が多く、多賀城の造営などに使われた瓦の産地で、「須恵器」(すえき)が出土しています。

近隣の「大蓮寺窯跡」は東北最古の窯跡ですし、与兵衛沼の底からは奈良時代の窯が見つかり、陸奥国府の多賀城・陸奥国分寺などに瓦を供給する古代の官窯だったことが分かっています。

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