会期終了間際、売茶翁生誕350年特別展「売茶翁と若冲」を見に佐賀へ。
「売茶翁なくして若冲なし」をテーマとした本展は、大変充実した内容で、思い切って遠路訪問した甲斐があった。巡回予定がなく佐賀のみでの開催というのが、もったいないほど。
売茶翁の肖像画

展示は「売茶翁偈語」に始まり、売茶翁の肖像画がずらりと並ぶ。
若冲が売茶翁に魅せられ、何度もその姿を描いたことはよく知られているが、池大雅や田能村竹田・直入、富岡鉄斎らによる作品も並び、計19点の売茶翁像が展示されていた。
全体を通して、個人的に特に心ひかれたのは2点。ひとつは、ポスターにも使われている有名な若冲の売茶翁像。もうひとつは、浦上玉堂が賛を寄せた売茶翁像である。
後者は、売茶翁生誕300年を記念して出版された図録「売茶翁集成―遺品・遺墨・偈語・伝記」では玉堂の筆と紹介されていたが、今回の展示は作者不詳に変更されていた。図録はモノクロだったので水墨画かと思っていたが、実物は彩色が美しく、なんとも雰囲気がある。
葛巾野服(かっきんやふく)
中には、腰が90度近く曲がった売茶翁像もあった。後弯症だったのだろうか。晩年に腰痛に悩まされていたという話が腑に落ちる姿である。
売茶翁は道服の鶴氅衣(かくしょうえ)の印象が強いが、こちらは頭巾と羽織を着た姿で描かれている。また、足袋を履いる絵もあった。
「売茶翁偈語」冒頭の売茶翁伝には、売茶翁が高遊外と号を改めた後、「葛巾野服、売茶の生(なりわい)適すること有り」と言ったと記されている。その記述を踏まえた姿なのかもしれない。
「葛巾」は葛布の頭巾、「野服」は粗布の服で、いわば庶民の質素な服装のこと。この二語が組み合わさった「葛巾野服」という語は中国の故事成語で、隠者や道士が身にまとう質素な服=俗世を離れた人物の象徴として用いられる言葉。
売茶生活を辞めた後に実際にこの服装をしていたのか、隠棲や清廉さの象徴的表現として描かれたのか。
売茶翁の足跡
今回初めて知ったことだが、売茶翁は後妻の子だったという。兄とは腹違いなのだろうか。家系図の展示からは、そこまでは読み取れなかった。
また、生誕地についても「佐賀市蓮池町」と大まかにしか分からなかったが、詳細な地図が展示されており、具体的な位置を把握できた。場所は蓮池地区の南西の角、諸富食品(諸富とうふ)のすぐ隣あたりである。
売茶翁が京都でふるまった「唐茶=佐賀の嬉野の茶」説
今年、新たに発見された資料も展示されていた。
従来、「唐製の茶」は「長崎港から輸入した中国製の茶」を指すと考えられてきた。しかし今回、売茶翁直筆とされる文書から、「唐製=肥前でこしらえている唐製の茶」を指していた可能性が浮上したと言うのだ。
「売茶翁が京都でふるまった茶は、嬉野の唐茶だった」という新説を裏付ける発見である。肥前は佐賀・長崎にまたがる地域だが、売茶翁が故郷から茶を取り寄せていたとすれば、佐賀の嬉野茶である可能性は十分高い。

嬉野市塩田=肥前蓮池藩の飛び地
嬉野との関係について、今回佐賀を訪れたことで理解が進んだ。
売茶翁の父の墓と、師である化霖道龍禅師の墓は、ともに嬉野市の塩田町にある。売茶翁の故郷である蓮池から距離があり(龍津寺も蓮池にある)、不思議に思っていたのだが、塩田は蓮池藩の飛び地であると知り、腑に落ちた。
塩田川の水運によって交通・物流の利便性が高く、嬉野の茶も川を使って蓮池に運ばれていたのかもしれない。
- 売茶翁の父の墓 :嬉野市塩田町・五町田小学校北側の桜谷(とんとん坂の西側)。「柴山権現」と呼ばれている
- 化霖道龍禅師の墓:嬉野市塩田町馬場下村下野辺田(慈眼山 円明寺跡) ※明治維新で廃寺
煎茶道具の展示
「売茶翁の波紋」と題された展示室には、煎茶道具がずらりと並んでいた。
花月菴所蔵の煎茶道具(江戸時代)
大阪で開催された「売茶翁から花月菴」展を見に行けず、残念に思っていたのだが、展示入替で後期だけ花月菴所蔵の煎茶道具が展示されていた。まさか貴重な売茶翁の遺品や復元茶器を、佐賀で見ることができるとは。嬉しい誤算。
隠元禅師が中国から携えてきた明代の涼炉は、背が低く驚くほど薄い。現代で言えばアウトトア用の小型コンロのようなものだから、軽量・小型なのはさもありなん。
持ち手が竹の瓢杓も、ティースプーンくらいの大きさ。湯を汲むにはあまりにも小さすぎるので、もしかして茶心壺から茶葉を取り出すために使っていたのかもしれない。
竹で作られた「竹根瓶床」は、書籍「売茶翁集成」では確認できなかったない刻印「宝暦五乙猪年八月造」を見ることができた(売茶翁自身の手によると言われる)。若冲の名前の由来と言われる「注子」も、写しが展示されていた。
これまで図録などで見ていた売茶翁の煎茶道具を見ることができたのは、感慨深かった。あまりに状態が良すぎて当時のものとは思えないほど。ガラスケース越しで美術品扱いだからこそ、そう見えるのかもしれない。一方でこれらは親しい友へ贈った餞別の品であり、本来は不特定多数の目に触れることを望んではいなかったのでは、とも思う。
「仙窠焼却語」で語られる自ら茶道具を燃やした売茶翁の意思を考えると、今もこうして現存し鑑賞できることへの喜びの裏で、どこか忸怩たる思いが同時に湧く。単純には喜べない複雑な心境。旅立った後のことに拘泥などはないかもしれないが。
先人の残そう・伝えようという意思がなければ、こうして見ることはできなかったのだから、貴重な品々を今の世につないでくださったことに感謝。
富岡鉄斎の煎茶道具(大正時代)
時代は下り、兵庫県宝塚市にある鉄斎美術館所蔵の大正時代の品々へ。
ここでは、富岡鉄斎が売茶翁愛用の茶具を復元した「煎茶皆具」全25点が展示されていた。売茶翁への敬意がひしひしと感じられる。ただ、本物の売茶翁の茶道具を見にした後だと、オリジナルと写しで見比べてしまうので、どうしても見劣りするのも正直な所だ。
売茶翁の享年は89歳、奇しくも鉄斎の享年も89歳。「茶を飲むと長生きする」とよく言うが、ものすごい符合。鉄斎の座右の銘は「万巻の書を読み、万里の路を行く」。生涯現役であった鉄斎にとって、健やかな長寿は必須であり、茶がそれを支えたのかもしれない。
売茶翁なくして若冲なし

本展の中心テーマである「売茶翁と若冲」。
水墨画の「果蔬涅槃図」を久しぶりに対面。二股大根のお釈迦様を野菜や果物・きのこが取り囲む。大好きな作品。よく見ると、カブ・蓮根・柿・ナス・筍にきのこ、とうもろこし、ほおずきに土筆も描かれている。
昨年新たに見つかった色絵巻「果蔬図巻」(※今回は出展されていない)と比較するのも面白い。こちらはカラーなので、どれがなんの植物が分かりやすく、果蔬涅槃図
展示の締めくくりは、国宝「動植綵絵」と「釈迦三尊像」の高精度の複製画(動植綵絵のみ撮影可)。

「丹青活手妙通神」の遊印

若冲作品のなかでも、売茶翁の影響を象徴するのが、一行書「丹青活手妙通神」の遊印が押された作品群である。
「売茶翁なくして若冲なし」の所以。この印が押された画は、「動植綵絵」30幅のうちの3幅と、「百犬図」の合計4枚。「動植綵絵」3幅の印の場所は、下記の通り。
- 動植綵絵「蓮池遊魚図」:右上(蓮の花の上) ※左中央には「斗米菴主若冲」の署名と落款
- 動植綵絵「池辺群虫図」:右側中央 ※右下には「若冲」の署名と落款
- 動植綵絵「池辺群虫図」:左上(クモの巣の下) ※右下には「斗米菴若冲」の署名と落款
若冲と売茶翁の精神的なつながりが、絵の上に確かに刻まれている。
売茶翁関連の書籍
今回の展示で興味を持って、初めて売茶翁を知り、もっと深く知りたくなった方へ。まず読むなら以下の2冊をおすすめしたい。
- 賣茶翁偈語 (著:大槻幹朗、出版:全日本煎茶道連盟、2013/1)
- 売茶翁の生涯(著:ノーマン・ワデル、出版:思文閣出版、2016/7)
どちらも入手が難しいのだが、「売茶翁の生涯」は国立国会図書館をはじめ、全国42ヶ所の図書館に所蔵されている。また、英語版は電子書籍も出版されている。「賣茶翁偈語」は、残念なことに図書館には所蔵なしだった。
個人的にはその後のノーマン・ワデル氏の研究蓄積を考えると、「売茶翁の生涯」改訂版の刊行を切望する。
おわりに
売茶翁の生涯、若冲との関わり、そして後の煎茶文化の広がりを網羅し、全体像を一望できる貴重な機会だった。遠方ゆえ躊躇していたものの、思い切って訪れて良かった。
しかし、圧倒的に教養が足りない。理解を深めるためには土台となる知識が必要で、漢詩、仏教思想、中国の歴史や故事成語など、知らないことが多すぎることを痛感した。けれどこの分からなさこどが次の学びを運んでくれる。

会場の外には蓮池が。枯蓮に思いを寄せる。
売茶という行為は、禅の教えを伝え、また生活するための手段であり、目的ではなかった。僧侶の身分を捨て、茶を売る翁に身を投じることで、身分に分け隔てはなく人に上下はないことを、身を以て示そうとしたのだろうか。
今回展示されていた「仙窠焼却語」には、売茶翁偈語には収録されていない「又云蔵身処没蹤跡。没蹤跡処莫蔵身」という言葉が載っていた。
没蹤跡。足跡を残さぬ生き方。名声を求めず、執着から離れ、風のように生きること。
妻子を持たず、愛用の茶道具を自ら焼き払い、墓を望まず鴨川に散骨されたという最期まで、その姿勢は一貫していた。とはいえ、残された者にとっては寂寥感この上ない。お参りする墓もなく、故人を偲ぶ拠り所がないのだから。供養は亡き人のためであるだけでなく、残された人のためでもある。若冲が何度も売茶翁を描いたのも、敬愛の表れであると同時に、翁を敬愛する人々から乞われて肖像がを描いたのだろう。売茶翁の人柄が偲ばれる。
足跡を残さぬよう生きた売茶翁。しかし、彼が残した無数の見えない縁はつながり、今も文化を育て続けている。願わくば清風であらんことを。


