古代中国、殷(商)から周にかけて作られた青銅器には、驚くほど精巧な装飾が施されている。余白を許さぬかのようにびっしりと覆い尽くされた文様。うごめく異形の生き物たちは、まるで器そのものに生命を宿したかのよう。妖気漂い、鬼気迫るその姿には、見るものに恐れと畏敬を呼び起こす。
中でも最も有名なのが「饕餮文(とうてつもん)」である。
飛び出た目、大きな角、左右対称の獣面、渦をなす文様──その意匠は鬼神か怪物か、見る者に強烈な印象を残す。何千年も前に、これほどまでに緻密な器が生み出されていたことに驚かされる。
今回は、謎多き「饕餮」と、その魅力に取り憑かれた江戸・明治の日本人たち、そして泉屋博古館に残された名品を紹介する。
※掲載写真は、すべて撮影OKな展示品を撮影したもの。
魔をも食らう伝説の怪物「饕餮」

大きな目と口、角をもつ左右対称の獣面。目が飛び出し、全身を渦のような文様が覆う。これが饕餮(とうてつ)。
饕(とう)も餮(てつ)も「むさぼる」という意味。古代中国の伝説では、饕餮はすべてを貪り喰らう怪物とも、当時の神を表しているとも言われる謎の存在。その強大な力で魔をも食らうとのことから、魔除けの文様として描かれるようになったと言う。

この盤には、饕餮の顔だけでなく、珍しいことに身体も大きく描かれている。蛇のようにとぐろを巻いた胴体に鉤爪の足が見え、その姿は龍に近い。饕餮の周りには、鳥や蛇・魚など様々な動物も描かれている。

饕餮という名は、後世、宋の時代につけられたもので、古代中国で当時どのように呼ばれていたのかはよく分かっていない。そのためか、台湾の故宮博物院ではシンプルに「獣面」(animal mask)と記載されているものが多く見られた。

意匠によっては顔の中央が棒状の鼻で区切られており、二匹が左右対称に向かい合っているようにも見える。
ちなみに、現代中国語で「饕餮之徒」という言葉は「食いしん坊」という意味だそうだ。だいぶ毒気が抜かれてユーモラスというか、おとなしい存在となっている。
饕餮の正体─神農の子孫「蚩尤」説

(商時代後期・紀元前12~11世紀、泉屋博古館 所蔵)
饕餮の起源には諸説ある。なかでも興味深いのが、炎帝・神農の子孫「蚩尤(しゆう)」の頭部を象ったものとする説だ。蚩尤は怪力無双の戦神で、牛の角をもち、鉄を鍛え、戦を司ったと伝えられる。姓は姜、現在の中国の少数民族・苗族(ミャオ族)の祖先とも言われている。
ちなみに、古代中国の農耕神である神農も、饕餮と同様に頭に牛の角がある。
時代別に見る青銅器と饕餮文

饕餮文は、時代とともにその姿を変えながら受け継がれてきた。古代は主に祭祀で使われ、神と人を繋ぐ神聖な道具の意匠として用いられた。
- 殷・周時代:祭祀用の酒器・食器として、神と人をつなぐ聖なる文様
- 戦国時代 :瓦や装飾品にも拡がり、鬼瓦の源流となったと考えられる
- 明・清時代:七宝や堆朱の技法で再現され、装飾美へと昇華
殷の時代

- 饕餮文鼎(殷時代・前15~前14世紀、東京国立博物館 所蔵)
- 饕餮文瓿(殷時代・前13~11世紀、東京国立博物館 所蔵)
- 饕餮文尊(殷時代、根津美術館 所蔵)
- 饕餮獣文方形盉(殷時代、根津美術館 所蔵)
- 饕餮文方卣(殷時代、白鶴美術館 所蔵)
鼎は、2つの持ち手と三本足のついた鍋。胴体部分に饕餮が描かれている。尊は酒器のこと。
周(西周・春秋)の時代

「卣」(ゆう)は酒器の一種。胴体部分に饕餮文様があしらわれている。額に小さな饕餮がついているのが面白い。

簋(き)は食物を盛る器。こちらは、通常角が眉のように見え、鼻の部分の意匠も凝っている。
戦国時代

後世には、青銅器だけでなく、瓦にも饕餮文が使われている。渦巻き文様が獅子舞の獅子のような姿に見える。牛角、牙、雷と饕餮の意匠は、鬼のイメージにもつながる。もしかして鬼瓦の起源はここなのだろか。
清の時代

殷代の卣を模倣し、七宝で作られた器。カラフルな饕餮が描かれている。
古代中国・殷・商の時代では饕餮が霊的な力を表したのに対し、清の饕餮は妖気が消えて、まるで牙を抜かれたように見える。時代が下るごとに、饕餮への恐れは薄れていったようだ。
日本に伝わった饕餮。煎茶席を彩った古代青銅器

日本では、江戸時代になると文人たちの間で「中国趣味」が流行し、煎茶席の床飾りに青銅器やその模造品が置かれるようになる。現在でも、茶会の設えにたまに見かけることがある。
神話で神農が「茶を最初に口にした人物」と伝えられるように、茶と神話は深く結びついている。江戸時代、煎茶人が席飾りに青銅器がよく使用したのも、単なる異国趣味ではなく、「神農=茶の発見者」という伝説への静かな敬意の表現だったのかもしれない。
江戸時代の床飾り
江戸後期の「青娯帖」(1844年 山本梅逸)
山本梅逸が記した「青娯帖」には、煎茶席の設えに中国古銅器が用いられている様子が描かれている。もともと青銅器は茶道具ではないが、中国の文人が愛玩していたことから、異文化の趣を添える装飾品として日本でも重宝された。
「茗讌品目」(山本梅逸)
同じく山本梅逸の「茗讌品目」にも、青銅器の床飾りを見ることができる。
明治の茶会と青銅器コレクション

明明治に入ると、青銅器はさらに知識人や財界人の手によって収集され始める。
その代表が、住友家15代・住友春翠(すみとも しゅんすい)である。
住友春翠と泉屋博古館

住友は中国の文人趣味に深く傾倒し、、文房を彩る数々の美術品を蒐集。中国の書画・文房具のほかに、数百点におよぶ古銅器を蒐集した。こうして誕生したのが、京都・泉屋博古館のコレクションである。
京都の泉屋博古館が所蔵する青銅器コレクションは、煎茶席の床飾りをきっかけに集められたものだそうだ。
なぜ何千年もの前のものが、こんなにも綺麗に残っているのか。
泉屋博古館の方にお聞きした所、これらの青銅器の多くは清朝末期、文人の所蔵品として日本に渡ったものだという。中国の文人が愛玩していた青銅器を清朝末に日本人が購入し、大切に保管してきたのだそうだ(※)。
数千年の時を経て、異国の地で守られ、今もなおその姿を伝えている。「保存」とは単なる所有ではなく、文化を次代へつなぐ行為であることを思わされる。
※当時は中国の青銅器を購入できた時代で、来歴証書も残っているという。

青湾茶会とその記録
明治時代には多くの煎茶会が開かれ、茶会記録がいくつも残っている。いくつかの茶席では青銅器が床飾りとして描かれており、当時の文人たちがどのように青銅器を用い、鑑賞していたかを今に伝えている。
おわりに
「魔をもって魔を制す」──あまりに強大ゆえに魔除けとなった饕餮。異様でいて魅力的なその姿は、数千年の時を超えて、国境を超えてその姿を留め、今なお人々の想像力を刺激している。
ちなみに、現在目にする青銅器はいずれも緑青に覆われ、侘びた風情があるが、当時は黄金色に輝いたという(日本人は、錆びて古色を帯びた緑青の方が好きかもしれない)。
