売茶翁の足跡を辿る|宮城編

伊達政宗像@仙台青葉城跡

月海元昭(高遊外 売茶翁)は、万寿寺の住職・月耕道稔を訪ねて東北へ向かい、23〜27歳までの5年間(1697~1701)を仙台で過ごしています。

当時、出家した僧が師の元を離れ、優れた師を求めて、行脚し修行することは、珍しいことではありませんでした。ここでは、売茶翁の仙台での足跡を辿ります。

目次

万寿寺(萬壽寺)@仙台市

黄檗宗 開元山 萬寿寺@仙台
黄檗宗 開元山 萬寿寺@仙台

売茶翁が仙台で訪れたお寺について、書籍「売茶翁の生涯」では安養寺、売茶翁の朋友・梅荘顕常による略伝「賣茶翁傳」では、万寿寺と記載されています。

仙台に入るとすぐ、売茶翁月海は、尾張出身の月耕道稔(1628〜1701)が住持する安養寺の僧堂に掛錫(※)している。

元禄10年(1697年)になって月海は月耕道稔の安養寺に入った。月耕が示寂するまでの4年間、月海は禅の修行を実践しただけでなく、大乗仏教の律学も学んだはずである。

※掛錫(かしゃく):僧堂に入門し、修行すること。行脚の雲水が僧堂に入ることを許され、錫杖(つえ)を壁のかぎに掛けることより(掛搭とも書く)。

売茶翁の生涯(ノーマン・ワデル 著)

万里の彼方の奥州仙台に至り、開元山 万寿寺の月耕道稔(1628〜1701)に参見し、掛搭して歳を過ごし、朝から夜まで努めはげんだ。

売茶翁偈語 訳注(大槻 幹郎、2013年)

万寿寺は、伊達綱村の創設で、当時、新しい寺を建てることは幕府から禁じられていたため、廃寺の「黒澤山 安養寺」を仙台に移し、万寿寺と改名する形をとっていました。

また、月耕和尚は、万寿寺の開山となる前、「黒澤山 安養寺」とは別の「仏光山 安養寺」の旧址(宮城野区)付近に住んでいました。

売茶翁が訪れたのは、万寿寺なのか月耕和尚の草庵の安養寺なのか。万寿寺と安養寺について調べてみた所、売茶翁が仙台を訪れた時には、月耕は万寿寺の住持であったため、万寿寺で修行をしたことが正しいと思われます。もしかしたら古くは万寿寺を安養寺と呼んでいたことが、あったのかもしれません。

安養寺を移し、万寿寺を開山

万寿寺の沿革
黄檗宗 開元山 萬壽禅寺の沿革(萬壽寺の立て看板より)

万寿寺は、綱村公夫人の稲葉氏・仙姫の菩提寺で、仙台藩一門格の寺院です。奥州初の黄檗宗の専門道場でした。

「封内風土記」によれば 、仙台藩主・四代伊達綱村は、陸前国加美郡黒沢村(現:宮城県加美郡色麻町)の廃寺「黒澤山 安養寺」の遺址を小田原邑高松(現:仙台市青葉区高松)に移して寺を建立しています。

そして、安養寺の本尊「虚空蔵菩薩像」を安置し、「月耕道稔和尚」をもって「黄檗宗 開元山 萬壽寺」を開山しました。

黄檗宗 開元山 萬壽禅寺の沿革(萬壽寺の立て看板より)
黄檗宗 開元山 萬壽禅寺の沿革(萬壽寺の立て看板より)

万寿寺は、周囲に15ヶ寺の禅寮を配する大伽藍を成し、最盛期には修禅者500人を擁していました。売茶翁は、ちょうど開山から4年間、万寿寺で修行しています。綱村公の肝いりで創設された時期、恐らく最盛期であったでしょう。

宝永3年(1706年)、綱村公夫人・稲葉氏仙姫が48歳で他界したため、 本殿・拝殿・唐門から成る廟所を造営し、仙姫の菩提寺となりました。実際に、万寿寺が当時どのくらいの広さだったのかは資料が見つからなかったのですが、かなりの広さだったと推察されます。

現在の万寿寺

万寿寺は、境内に10院を擁する大寺院でしたが、明治2年に戊辰戦争で廟を破却させられ、版籍奉還と共に寺録を失います。寺は著しく荒廃し、唯一残ったのが「塔頭 三味院」(開祖月耕の墓所)でした。現在の万寿寺は、大正7年に三昧院が万寿寺を襲名したものです。

開元山 萬壽寺

境内子院十ヶ院あり、其の一を三味院と云ふ、月耕の搭堂なり。
霊松院・大珠院・吟松院・韶陽院、甘露院、慈照院・棲雲院・大通院・三毬院を始め、外高堂楼閣多く荘厳を盡せしが、明治二年霊像を瑞鳳廟に遷し、今はみな廃墟となる。残るは三味院の堂宇のみ。

宮城郡誌(宮城郡教育会、1928年、1109p)

明治43年には、岩手県遠野市にあった黄檗宗の寺院「放光山 感応院」が万寿寺に合併されました。

煎茶に適す湧き水「野田の清水」

万寿寺の境内には、「野田の清水」という湧き水があります。多賀城市に流れる玉川の源流とも言われ、江戸時代、「煎茶には最も適した水」として伊達家の煎茶用の水として使われていました。

仙臺市外向小田原山下萬寿院付近に三昧院と呼ぶ禅寺がある。

境内の藪の中の小池に湧水を野田の清水と称えへている。透明清冽いかなる旱天続きでも決して渇水するやうなことはない。昔はこの水が流れて玉田横野を貫き、浮島なる野田の玉川の源泉であったと伝えられる。

水質最も煎茶に適し 伊達家の御茶の水として用ひられたものだといふ。その近傍に伊達家誤用の御箔屋があって金銀の箔を作っていた。舊家だったさうだがこれも畢竟野田の清水を箔打ちの振り水に使用したものだらうとの説がある。

滅び行く伝説口碑を索ねて(大正15年、富田広重 著)※出典:国立国会図書館デジタルコレクション

尚、仙台市発行の「平成15年度 自然環境の関する基礎調査業務報告書」(平成16年2月発行)によれば、 野田の清水は「30年前までは、飲用水や生活用水として使われていた」と記録されています。

伊達家は茶の湯で有名ですが、煎茶も嗜んでいたようです。この件については、機会があれば別途調べたいと思います。

今も残る万寿寺の山門

大願寺の山門(旧万寿寺の霊屋門)
大願寺の山門(旧万寿寺の霊屋門)

明治時代に入ると、万寿寺の霊屋門(おたまやもん)は大願寺に売却&移築され、同様に本堂前の山門も常念寺に移築されました。これらの山門は、今も各寺に残されています。その後、 万寿寺は平成3年に本堂を再建、平成8年に山門を建立し、現在の姿となりました。

大願寺に残る万寿寺の霊廟門
大願寺に残る万寿寺の霊廟門
大願寺の説明板
  • 浄土宗 増上山 大願寺  ※山門は、明治11年頃に万寿寺の霊廟門を購入移築したもの
  •  一向山 常念寺     ※山門は、明治11年頃に万寿寺の本堂前の山門を購入移築したもの

万寿寺 年表

備考
1696年(元禄9年)仙台藩主4代 伊達綱村が創設
1706年(宝永3年)本殿・拝殿・唐門から成る廟所を造営し、仙姫の菩提寺とする
1872年(明治2年)戊辰戦争で廟は破却、版籍奉還と共に寺録を失い著しく荒廃。塔頭 三昧院だけが残る
1918年(大正7年)三昧院が萬寿寺を襲名
1972年(昭和47年)本堂と庫裡を建立
1988年(昭和63年)解体
1991年(平成3年)本堂を再建
1996年(平成8年)山門を建立(中国式の三層山門)
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