売茶翁の京都・洛東での売茶翁の足跡を辿ります。江戸時代の京都の街のようすと共に、約20年に渡る売茶生活の終焉・最晩年を過ごした場所などを紹介します。
三十三間堂@東山区

「千仏堂前 松樹の下 買い来たって 誰か識らん 武陵の春」(蓮華王院 開茶店)
1739年(65才)、蓮華王院 三十三間堂(千佛閣)と方広寺(大仏殿)の間に茶店の「通仙亭」を移します。
かつての杜若の名所
「杜若花開く 古殿の前 売茶 此の夕 池辺に傍う」(夏夜千佛閣前 杜若池上開茶舗)
江戸時代、三十三間堂は杜若の名所でした。
寛政十一年(1799年)に出版された「都林泉名勝図会」では、かつて三十三間堂にあった池の燕子花(かきつばた)を、茶店から人々が観賞している姿が描かれています。

売茶翁も杜若の花咲く頃に茶を振舞い、詩を残しました。

方広寺@東山区

「松下に茶を点じて 過客 新たなり 一銭売与す 一甌の春」(舎那殿前 松下開茶店)
方広寺(通称、大仏殿)は、徳川家康の怒りを買い、豊臣家滅亡のきっかけとなった「君臣豊楽 国家安康」の梵鐘で有名なお寺です。方広寺の本尊が「毘廬舎那仏(びるしゃなぶつ)」であったことから、舎那殿前と書かれています。
不運に見舞われ続けた「京の大仏」
かつて方広寺には、「京の大仏」「東山大仏」と呼ばれた、東大寺の大仏をしのぐ大きさの大仏がありました。地震や火災により、何度も失われては再建を繰り返しています。
年代 | 方広寺の 大仏 | 備考 |
---|---|---|
1595 – 1596年 | 初代「木製金漆塗坐像」 | 豊臣秀吉が造成。 伏見大地震で倒壊 約19mと東大寺の大仏より大きく、木造で漆塗と金箔が施されていた。 |
1599- 1602年 | ※未完成 | 鋳造中の出火により、完成前に焼失 |
1612 – 1662年 | 二代目「金銅製金張坐像」 | 豊臣秀頼が造成。銅造で金箔が張られていた。 地震や火災が重なり焼失 |
1667 – 1798年 | 三代目「木製胸像」 | 徳川家綱が造成。金色木像の大仏。落雷による火災で焼失 |
1843? – 1973年 | 四代目「木製半身像」 | これまでの大仏の半分の大きさで再建。 火災により焼失 |
売茶翁の時代には三代目の大仏がありましたが、1798年に雷火で焼失しました。その後、寄進された大仏像も火災により焼失し、現在は本堂・大黒天堂・大鐘楼を残すのみとなっています。

洛東名物「大仏餅」
京の大仏にあやかり、方広寺の門前では「大仏餅」が売られていました。江戸時代の名所案内「都名所図会」でも大きく紹介されており、売茶翁の時代も人気の京名物だったことが伺えます。

洛東大仏餅の濫觴(らんしょう)は 則方広寺 大仏殿 建立の時より此銘を蒙り売弘ける。
其味美にして、煎に蕩ず灸に芳して、陸放公が炊餅、東坡が湯餅にもおとらざる名品也。
唐破風作の額標版は正水の筆にして、代々ここに住して遠近に其名高し。
都名所図会(秋里籬島 著、1780年)
昭和の戦争で大仏餅は一時途絶えますが、京都の菓匠「七條甘春堂」が当時と同じ製法で復活させています。江戸時代と同様に杵と石臼で作られ、「京大佛」の焼き印が押されています。
- 東山 大仏餅(京菓匠 七條甘春堂)
高台寺@東山区

「茶を煮て特に試む 菊潬の水」(遊高台寺煮茶)
高台寺の裏より流れる菊渓(菊谷)の水を汲み、茶を淹れた詩が詠まれています。
菊渓を水源として流れる川を「菊渓川」と言い、野菊の咲く清流で、東山の地を流れていました。高台寺 東庭の臥龍池(がりょうち)は、菊渓川の水を引き込んでいました。菊渓川は暴れ川であったため、都市計画で廃川となり、現在はほぼ暗渠となっています。
京都東山の名水「菊水の井」

下河原にある井戸「菊水の井」は菊渓川と水脈が通じており、昔から茶に良いと言われている京都の名水です。高台寺のほど近くにある料亭「菊乃井」の屋号の由来ともなっています。
菊渓には「菊渓菊」(キクタニギク。別名アワコガネギク)という野菊が自生していましたが、現在ではその姿は見られなくなり、京都府より絶滅危惧種に指定されています。
法住寺@東山区

「修竹林間 古寺の傍 茶烟靉靆(あいたい)白雲香し」(法住寺前林間 開茶亭)
後白河法皇ゆかりの寺「法住寺」前の竹林で、茶店を開いています。竹林で清談にふけった「竹林の七賢」にあやかったのでしょうか。
法住寺は今でこそ小さな寺院ですが、かつては広大な寺領を誇る寺院「法住寺殿」で、三十三間堂も殿内のお堂のひとつとして造営されました。
焼失や荒廃を経て、後白河天皇の御陵(法華堂)を守るため、江戸時代(1621年)に法住寺が創建されました。明治時代の廃仏毀釈により御陵と寺が分離され、現在に至ります。
新長谷寺@左京区

「独り 竹炉を荷って落紅を焼く」(遊新長谷寺煮茶)
新長谷寺で、紅葉を焼いて茶を煮た詩が残されています。
吉田神社にあった新長谷寺
江戸時代、新長谷寺は吉田神社の麓にあり、観音の霊場でした。堂内には、奈良の長谷寺「十一面観音像」を模した仏像を祀られていました。
江戸時代の名所案内「再撰花洛名勝図会 -東山之部-」から、当時の新長谷寺の姿を確認することができます。


真如堂に移築され、現在に至る
明治維新の「神仏分離令」(1868年)で廃仏毀釈の動きが高まり、新長谷寺は吉田神社から真如堂内に移築されました。現在も真如堂の境内にその姿を留めています。
※北野天満宮にも「新長谷寺」がありますが、こちらは別のお寺です。元文5年(1740年)に廃寺となり、現在は石碑だけが残っています(新長谷寺古跡)。
聖護院@左京区

「新たに聖護に添う 洞中の翁」(聖林卜居)
1754年(80才)、相国寺 林光院から聖護院村(洛東の東岡崎)に居を移します。
聖護院村の通仙亭
江戸時代・文久二年(1862年)に刊行された京都の地誌「再撰花洛名勝図会 -東山之部-」には、聖護院村の「売茶翁 通仙亭址」についての記述が見られます。

売茶生活に終止符を打つ
却後或いは世俗の手に辱しめられば 汝に於て恐らくは遺恨有らん
是を以て 汝を賞するに 火聚三味を以ってす」(仙窠焼却語)
聖護院村に居を移した翌年の1755年、数え年で81才の時、売茶翁は愛用の茶道具を焼き払い、約20年に渡る売茶生活に終止符を打ちます。幾つかの茶道具は、親しい友人へ受け継がれました。売茶翁の形見として木村蒹葭堂は瓢杓を、池大雅は愛用の「寄興鑵」(きこうかん※)を贈られています。

幻幻庵@東山区
かつて蓮華王院 三十三間堂の南にあった庵「幻幻庵」に、売茶翁は晩年の一時期住んでいました。幻幻庵は、これまで「売茶翁が生涯を終えた場所」と伝えられていました(近世畸人伝より)。
終に蓮華王院の南、幻幻庵にして化す。世壽八十九。寶暦十三年癸未失月十六日也。
近世畸人伝(伴蒿蹊 著、1790 年)
比叡山に移築された幻幻庵
しかし、売茶翁の死去の数ヵ月前に幻幻庵は解体され、比叡山の「安楽律院」の境内に再建されたとの記録があるため、売茶翁が生涯を終えた場所はよく分かっていません。
売茶翁は86才の時(亡くなる3年前)、禅語として有名な「寒山詩」の一節を書き残しています。
吾心似秋月 碧潭皎清潔 吾が心秋月に似たり 碧潭清うして皎潔たり
無物堪比倫 教我如何説 物の比倫に堪うる無し 我をして如何が説かしめん

宝暦13年7月16日(1763年)、売茶翁は享年89才で永眠します。
遺体は荼毘にふされ、遺言により「擦骨」(さっこつ)という葬法で、骨は砕かれ粉となり、鴨川にすべて流されました。そのため、売茶翁のお墓はありません。