10年に渡る大規模な修繕工事中。黄檗宗 万寿山 聖福寺@長崎

黄檗宗 聖福寺@長崎

長崎四福寺の一つ、万寿山 聖福寺 (しょうふくじ)に。江戸前期に創建された黄檗寺院で、萬福寺の末寺にあたる。長崎出身の画家・鶴亭(かくてい)が黄檗僧となった寺でもある。残念ながら修繕工事中だったのだが、創建当時の建造物が数多く残っている。

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別名「広東寺」。長崎出身の鉄心禅師が開山

長崎駅からも徒歩10分程度で着くが、路面電車に乗り、「桜町」電停へ。坂を登って石畳の道を歩き、5分ほど歩いたところに聖福寺はある。原爆の爆心地からほど近いのだが、裏山によって守られた。

長崎三福寺(興福寺・福済寺・崇福寺)に聖福寺を足して、長崎四福寺と呼ばれている。別名・広東寺。

長崎四福寺の唐寺寺の通称創建した唐人の出身地
崇福寺福州寺福州地方
興福寺南京寺南京地方
聖福寺広東寺広東地方
福済寺漳州寺または泉州寺漳州と泉州出身

長崎の唐寺は、唐人の出身地別に創建され、それぞれ通称がある。ただ、聖福寺は他の唐寺とは創建の経緯が異なり、隠元の孫弟子にして長崎出身の名僧・鉄心道胖のために、時の長崎奉行や在留唐人の有志が創立したものと言う。

「聖福八景」として、多くの文人がこの地を詩に詠んだそうで、聖福寺は「聖福八景図詩巻」(童立山画・林道栄ほか書、1686年)という図詩を所蔵している。

余談だが、聖福寺というと同名の寺が福岡県博多市にあり、こちらの方が有名かもしれない。日本最初の禅寺「安国山 聖福寺」だ。1195年に栄西禅師が創建し、中国から持ち帰った茶の種をお隣・佐賀県の背振山に植えた逸話があり、茶との関わりも深い。境内には、日本茶発祥を示す「茶の木」が植えられているそうで、背振山由来の茶木なのだろうか。気になる所だ。

鉄心道胖(1641~1710):黄檗僧。幼時より隠元隆琦の弟子・木庵性瑫に学び、名僧の誉れ高い。父は唐人の陳朴純(中国福建省章州府龍渓県出身)。母は地元の商家・西村家の娘で、日中のハーフ。早くに父を失い出家。14歳のとき木庵禅師に師事し、京都の萬福寺で修行。寛文 11年 (1671年)に 母の死で長崎に帰郷。3年の喪服後に聖福寺を創建。

普茶料理の書籍を出版

聖福寺は普茶料理の本を出版しているので、こちらで有名かもしれない。フルカラーで器などの設えの写真も美しく、普茶料理について知るならおすすめの一冊。普茶料理は、長崎の名物「卓袱(しっぽく)料理」のルーツの1つでもある。

山門(重要文化財)

聖福寺にたどり着くと、白い仮囲いに全面が灰色のビニールシートで覆われていた。そのため寺の存在に気づかず、一度通り過ぎてしまった。

工事の案内によると、2021年から老朽化した国重要文化財(大雄宝殿・天王殿・鐘楼・山門)の修繕を行う計画だそうだ。いずれも江戸時代に建てられたもの。時の流れとともに傷みや劣化は避けられない。訪れた際は第二期工事中で、大雄宝殿と山門の工事が行われていた。

日本人の職人の手による建築

修理前の聖福寺 山門(パネルより写真拡大)

元禄16年(1703年)に建立されたという山門は、堺の豪商と棟梁による日本人によるもの。そのせいか、同じ長崎の唐寺でも、興福寺や崇福寺の朱色の山門と比べて、落ち着いた雰囲気で京都の萬福寺に近い印象を受ける。

この山門は、堺の豪商・京屋宗休が寄進し、堺の棟梁によって元禄16年(1703)に竣工。堺で木材を切り組み、海路長崎に運んで建造した。八脚門形式で、屋根は切妻の段違いで本瓦葺き、中央部を一段高めた雄大な造りである。
※八脚門形式…一重の門で、4本の本柱と、それぞれの前後8本の控え柱によって構成される門。

聖福寺 案内板より

扁額「聖福禅寺」(隠元禅師の筆)があり、ぜひとも見たかったのだが、当然見られず。

聖福寺の創建に先立つこと1年、寛文 12年 (1672年)、隠元禅師が81歳の時に揮毫したもので、この翌年に隠元禅師は示寂されている。こちらの文化遺産オンラインのサイトで扁額を見ることができる。

天王殿(重要文化財)

石段を登ると、天王殿が姿を表す。山号の扁額「万寿山」が見える。

江戸時代中期(1705年)に建立された天王殿には、京都の萬福寺と同様、呵呵とした布袋様(弥勒菩薩)が鎮座されている。門の裏側には、背中合わせで韋駄天が控え、京都萬福寺の韋駄天像と同様、剣を携え合掌した美しい姿で、護法を守っている。写真を撮ることはなんとなくはばかられた。

天王殿

天王殿という名称は中国伝来のものである。

中央に弥勒菩薩(布袋)と韋駄天を背中合わせに祀り、左右を通り抜けにした、仏殿と門を兼用する独特の形式を持つ。中門・弥勒門・護法堂などの別名がある。
当寺山門と同じ堺の棟梁により、宝永2年(1705)に竣工。鉄心が修行した京都の黄檗山萬福寺に倣い、中国建築様式の特徴である朱丹塗を避け、彩色は扉やその他の局部に止め、素木を主体としている。反りのある優美な屋根と吹き放しにつく曲面の黄檗天井が特徴の建物である。

聖福寺 案内板より
万寿山の額の下には「兜率天」の扁額

ユーモラスな狛犬

参道途中に崇福寺にあった長崎四国88ヶ所の第14番札所になっている地蔵堂。

は異国風情のある中国獅子だったが、こちらは阿吽の狛犬。ずんぐりした体つきと大きな尾に、表情がなんともめんこい。

燃やす文書の字を惜しむ。炉の「惜字亭」

山門を抜けると、色褪せた朱色の塔のようなものが目に入る。

こちらは不要な書類を燃やした炉とのこと。白い枠の内側にうっすらと「惜字亭」と見える。表面が剥がれて、内側の赤レンガが一部露出している。長崎の赤煉瓦だそうで、「こんにゃくレンガ」というのだとか。

惜字亭

これは、経文をはじめ、寺内の不要文書類を焼却するための炉で、惜字亭という名称は、文字を焼却するにあたり、書かれた文字を惜しむという意味を示し、たいへん奥ゆかしい。炉は、煉瓦造り漆喰塗りの六角形で、築造は慶応2年(1866)7月とされている。
赤煉瓦の製造法は、幕府の要請により長崎製鉄所建設指導のため、安政5年(1858)頃長崎に来たオランダ海軍技術士官によってもたらされた。
明治元年(1868)12月に建築された小菅修船場跡(国指定史跡)に現存する曳揚機小屋も、赤煉瓦が使用されているが、この惜字亭は、それより2年ほど早く、中国人信徒によって築造寄進された。

聖福寺 案内板より

長崎の唐寺に行くと必ずこういった炉があり、寺によって「お供えの紙銭を焼く」と紹介されているが、不用品を焼いたり供養の品を焼いたり、用途は様々のようだ。それにしても燃やす書類の「字を惜しむ」とは、粋な名前をつけるものだ。

大雄宝殿(重要文化財)

黄檗宗 聖福寺
工事中の大雄宝殿。全面がシートで覆われており、外観は全く伺い知れない状態だった。

工事現場のような入口を通ると、こちらも修繕工事中。きちんと調べてからくればよかったと、若干の後悔の念が浮かんでくる。元禄10年(1697年)に建築されたもので、黄檗天井に、卍崩しの勾欄など見どころが多い。

大雄宝殿には釈迦三尊が祀られており、(釈迦如来・迦葉尊者・阿難尊者)、仏像内部には珍しい金属製五臓がおさめられている。

廃瓦を積み重ねて作られた「鬼塀」

聖福寺の見どころの1つ。大雄宝殿左横に、異様な雰囲気の塀がある。聖福寺の末寺がなくなる際、廃材の瓦を積み重ねてできたものだとか。現代アートのようにも見える。

瓦が波のように配置され、鯱が波間を泳ぎ、鬼が顔をのぞかせる。桃が埋め込まれているのも、黄檗寺院ならでは。

湧き水の「龍泉」

瓦塀の裏に「龍泉」と名付けられた湧水があるそうなのだが、見落としてしまった。貞享 4年 (1687年)、鉄心が普請中に亀の形をした石を起こして発見し、名水として当時利用されていたと言う。

隠元禅師は、茶を題材とした詩をいくつか残しており、その中に「龍泉」という言葉もでてくる。こちらの湧水も、茶を淹れるのに使われたのかもしれない、と思いを馳せる。

詠茶

醒迷須雀舌

試茗貴龍泉

個個開心眼

越州話始意圓

隠元禅師語録より

神宮寺から移築された石門

壁も扉も朱塗りの、異国情緒あふれる庭門。石に赤字で書かれた「華蔵界」という文字は、鉄心禅師の師・木庵禅師の筆。扉は閉ざされており、庭園内に入ることはできない。奥には茶室「徹心軒」があるらしい。

唐突に門がある印象を受けたのだが、それもそのはず。元々は他の寺にあったもの。聖福寺の背にある金比羅山にあった「崇岳無凡山 神宮寺」(金比羅神社)が、明治の廃仏毀釈で廃寺になり、明治 19年 (1886年)に聖福寺に石門を移築したのだとか。

門の木枠には、吉祥文様のコウモリの姿が見える。

九州最大の鐘「鉄心の大鐘」がある鐘楼

こちらは工事はやっておらず、拝見することができた。江戸中期に建造された建物で、長崎の鋳工・安山弥兵衛国久の作。一度改鋳されているそうだが、戦時中の金属回収を免れ、現存しているのは珍しい。「鉄心の大鐘」とも称され、長崎市内最大のものだとか。

国指定重要文化財「鐘楼」
この鐘楼は、堺と長崎の棟梁の合作で、享保元年(1716)に竣工。長崎県下での鐘楼建築では現存する最古のものである。
全般的には禅宗様を基調にした造形で、長崎の黄檗宗寺院に見られるような強い中国色はほとんどない。全体の姿形は均整がとれていて、秀逸である。細部様式も派手さはないが、逆に抑制された上品さが感じられる。
一部後世の改造は見られるが、創建当初の構造形式がよく保持されており、創立当時の伽藍遺構を構成する一連のものとして、建築史的価値の高い貴重な建造物である。

聖福寺の案内板より

聖福寺の梵鐘
当寺の開基である鉄心道胖の兄、唐通事の西村七兵衛の意思を継ぎ、子の作平次と母とで梵鐘1口を寄進した。
元禄7年(1694)5月のことであった。鋳工は不明である。
のち2代住持である暁巌元明の時、享保2年(1717)に改鋳された。長崎の鋳工、安山弥兵衛国久による。鉄心の没後7年であったが、その音色が優れ音量豪壮であり遠く郊外まで響くので、「鉄心の大鐘」と呼ばれ親しまれた。
安山家は金屋・阿山の姓でも諸資料に見える鋳物師であり市内外の仏寺梵鐘の大部分を作ったが、供出されて失われたものも多い。この文化財は戦時の金属回収を免れ、現存した貴重な作例である。なお、国久の作として他に、青銅塔(市有形文化財、市内本河内町)が遺されている。

聖福寺の案内板より

食を分けあい、功徳を積む「生飯台」

扉には、魔除けにして不老長寿の仙果・桃の意匠。蓮の花をかたどった生飯台(さばだい)も。食事の前にこちらに供える餓鬼・畜生・無縁仏への布施行。訳知り顔で小鳥がついばみにやってくるのだろう。

生飯台は黄檗宗を始め、禅宗寺院でよく見かける。京都の萬福寺では、斎堂(食事をする場所)の前に生飯台があったが、聖福寺では鐘楼の前に設置されていた。

坂本龍馬ゆかりの地。寄贈された坂本龍馬像

坂本龍馬の像。こちらはクラウドファンディングで費用を集め、2020年に寄贈されたものだとか(山﨑和國氏の作)。

「いろは丸事件」の談判は、聖福寺で行われた

「なぜ黄檗宗の寺院に龍馬像があるのか」と言うと、聖福寺は海援隊と紀州藩の船が衝突した「いろは丸事件」の談判が行われた地なのだそうだ。こちらを訪れるまで全く知らなかった。

慶応3年(1867)5月22日、いろは丸事件の談判が、この聖福寺で行われました。

4月23日、坂本龍馬らが乗った「いろは丸」は、瀬戸内海で紀州藩船「明光丸」と衝突・沈没。

その賠償交渉が鞆の浦(福山市)と長崎市で行われ、龍馬は土佐藩士・後藤象三郎とはかり、紀州藩に賠償金8万3000両(のちに7万両に減額)を支払わせることで決着しました。

このとき龍馬は世論を味方にするため「船を沈めたその償いに、金をとらずに国をとる」という歌を作り、長崎の街中に広めたと言われています。

聖福寺 案内板より

媽祖を祀る今はなき「観音堂」

唐寺であるのに媽祖廟がないことが不思議だったのだが、かつては「観音堂」があり、そちらに媽祖像・順風耳像・千里眼像が鎮座されていたそうだ。

原爆で大破し、観音堂は解体されてしまったが、これらの像は「長崎歴史文化博物館」に所蔵されている。博物館は聖福寺から徒歩5分ほど。くんちで有名な諏訪神社も程近い。

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