京都洛北の詩仙堂|文人・石川丈山の隠棲地

叡山電鉄に乗り、洛北の一乗寺から坂を上って詩仙堂に。江戸初期の文人・石川丈山(1583~1672年)が晩年を過ごした、終の棲家。

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凹凸窠の詩仙堂

詩仙堂@京都

詩仙堂入り口の扁額「小有洞」は、丈山の筆によるもの。

詩仙堂の由来は、中国の詩家36人の画が掲げられた「詩仙の間」。三十六歌仙に習い、三十六詩仙を選定し、狩野探幽が描いた李白・杜甫・白楽天・蘇軾などの肖像画が四方に飾られている。

詩仙堂の入り口(竹林)

山門をくぐると、背の高い竹林が両側に生えており、空気がひんやりとしている。

紅葉の時期はとても混雑する場所だが、シーズンオフの早朝。参道は無人で静寂に包まれ、聞こえるのは風に吹かれた竹の音。葉が散り、くるくると舞う。ここだけでも来てよかったと思う。

詩仙堂・老梅関

竹林の木漏れ日の参道を抜けると、第二の門「老梅門」が。

正面に書院の雲形窓が見える。障子の開け具合が、まるで目のよう。一度そう見えると、今度は露地の石が口に、門が顔に見えてきて、なんだか面白い写真になってしまった。

座敷から眺める白砂の庭

詩仙堂の白砂の庭

書院に閑に座して、庭を眺める。白砂の庭に、丸くかり込まれたツツジ。座敷と庭の一体感。

床の間には、隷書体で書かれた「福」「禄」「寿」の3つのお軸。時折聞こえる鹿おどしの音が、静寂を一層際立たせる。しばらく残る音の余韻。丈山はここで煎茶を喫し、漢詩を読み、晩年の31年間を過ごした。「希代の隠士」と呼ばれ、清貧の生活を送り、日常生活の規律として「六勿銘」(ろっこつめい)を定めている。

  • 勿妄丙王  火の用心(火を粗末に取り扱うな)
  • 勿忘棍族  戸締用心(盗賊を防ぐことを忘れるな)
  • 勿厭晨興  早起き(早起きをいとうな)
  • 勿嫌レイ食 粗食(粗食をいとうな)
  • 勿変倹勤  倹約(倹約と勤勉を変えるな)
  • 勿惰拂拭  掃除(掃除をおこたるな)

丈山好みの唐様庭園

詩仙堂の唐様庭園

書院から庭に降りることができ、随分と奥まで続いていて、その広さに驚く。

詩仙堂の正式名称は「凹凸窠」(おうとつか)で、「でこぼこ起伏のある地に建てた住居」を意味する。庭を歩き回ると、その名を実感する。比叡山のふもとにあり、その土地の地形や景観を生かした文人山荘。

綺麗に刈り込まれ、人の手で整備された部分と、山がそのまま残っているような部分と。紅葉や5月のサツキの花が有名な場所だが、時期を外すと人も少なく、ゆったりと過ごすことができる。

鹿おどし(添水)

詩仙堂の鹿おどし

流水を受けて、竹筒に水がたまる。水の重みで傾いた竹が石などを 打ち、カーンと音を立てる。身が引き締まるよな音。

軽くなった竹筒は元の位置に戻り、また流水を受けて。点を打つように規則的に音を立て、時を刻む。

鹿おどしは、その名の通り、鹿や猪などを威嚇するためのもの。そのうち、竹筒に水を通して音を鳴らすものを「添水」(そうず。僧都とも書く)と言ったが、後に「鹿おどし=添水」となり、風流な音と仕掛けから、丈山が日本庭園に初めて取り入れたとか。

煎茶と丈山

八坂の五重の塔を表す、石燈籠。

丈山は、公式ホームページで「煎茶(文人茶)の開祖」と紹介されているのだが、煎茶道をやっていて、そのような話は聞いたことがない。どこからm石川丈山の煎茶開祖説は生まれたのか?

丈山の煎茶開祖説

情報の出典を調べてみた所、どうやら幕末に書かれた煎茶書「煎茶綺言」(1857 年、売茶東牛)によるものらしい。

石川丈山を煎茶家の始祖に持ってくる誤りを犯したのは、梅樹軒東牛著といわれる『煎茶綺言』と題する本が、煎茶家系譜というものを載せ、元祖石川丈山より平岩仙桂、舫屋一夢、小川信庵、高遊外、八橋方巌を経て、『煎茶綺言』の作者梅樹軒東牛まで至り、自らを煎茶家七世の孫、売茶三代目と記したことによるのである。

本書は『古事類苑』飲食部にも採録され、また近年改版された人名辞典などにも系譜がそのまま掲載されたため、最近出される煎茶書の多くは丈山説を取り入れているが、『煎茶綺言』の系譜は捏造であるとする見方が有力であるところから、丈山説が姿を消すのも遠くないことであろう。

煎茶入門(小川後楽、1976年)

煎茶綺言

煎茶綺言(1857 年、売茶東牛)
煎茶綺言(1857 年、売茶東牛)※出典:国立国会図書館デジタルコレクション

売茶東牛(1791~1879 年)は、曹洞宗の僧から還俗し、売茶翁のように茶舗を開き、茶や茶道具を売って生計を立てていた。「煎茶綺言」は、茶書「烹茶樵書」(曽永年、1803年)を元に書かれ、新たに東牛が追加した「煎茶家系譜」の章に以下のように記されている。

  • 元祖  六々山人丈山居士   :煎茶の祖
  • 第二祖 平岩仙桂     :石川丈山に煎茶を学ぶ
  • 第三祖 舫屋一夢     :仙桂と交友し、茶法を授かる
  • 第四祖 小川信庵     :一夢より茶技を学ぶ。「煎茶会話式之書」の著者
  • 第五祖 中興売茶高遊外居士:売茶翁。一夢や信庵の弟子と交友し、煎茶に親しむ
  • 第六祖 八橋売茶禅翁方巌 :売茶翁の遺風を慕い、煎茶を行う
  • 第七祖 梅樹軒売茶東牛  :「煎茶家 七世之孫 売茶三代目」として自らを掲載
 詩仙堂の木枠

煎茶関係の論文を読むと、「売茶東牛の創作・捏造」という評価が多いようだ。

尚、更に調べた所、「煎茶綺言」以前、「煎茶会法式之書」(小川信庵、明治15年)に丈山開祖説が書かれていたそうだが、後世(明治15年)に編纂された版しか見つからず、記載は確認できなかった。

いずれにしろ、よくある「日本最古」「開祖」「元祖」などの表記は、事実と異なることも多いので、そのまま受け取らず一度検証する必要がある。

※石川丈山と煎茶道については、茶道文化研究者の矢部誠一郎さんの著書「日本茶の湯文化史の新研究」(2005年)が詳しい。

近世畸人伝

凹凸窠_詩仙堂

売茶翁と同様、丈山は、京都の文人・伴蒿蹊(1733‐1806)による江戸時代の伝記「続 近世畸人伝」に取り上げられている。煎茶の開祖説に疑義はあれど、丈山が茶を嗜み(※茶に関する漢詩が残されている)、また、その生活が煎茶家の憧れの存在であったことは事実だろう。

石川丈山

さてぞ武門を離れて日枝の山のふもと、一條寺むらに世を避け詩仙堂をし、自ら六々山人と號し、山水花月に情を慰む。

詩仙堂とは、唐宋諸名家三十六人の詩を一首づゝ自書し、像は探幽法印に畫せしめて梁上に掲げたればなり。本朝の歌仙に准らふるなるべし。こゝに隱れて後は京へ出づる事をせず。 

後水尾帝其の風流を聞こし召して召されしかど、固く辭し奉りて、渡らじな 世見の小川の淺くとも 老の波たつ 影は恥かしと申し上げければ、憐み思し召し、心に任せよと勅ありしが、殊に此の歌の「波たつ」を「波そふ」と雌黄を下し給ひしも忝し。

続 近世畸人伝(巻之一)(伴蒿蹊:著、三熊花顛:挿画、宗政五十緒:校注)

どちらも妻帯はせず、当時としてはかなりの長生き(売茶翁87才、丈山90才)。

「畸人=変わり者」という意味だが、「畸人なる者は、人に畸なれども天にひとし」(「荘子」の第六大宗師篇より)。世間の常識に縛られず、自由な精神で天に愛され、我が道を行く人。

子貢曰 敢問畸人        子貢 曰わく「敢えて畸人を問う」と。

曰 畸人者 畸於人 而侔於天  曰わく「畸人なる者は、人に畸なれども天に侔し。

故曰 天之小人人之君子     故に曰わく、天の小人は人の君子、

天之君子人之小人也    天の君子は人の小人なり。」

 詩仙堂「死生」

尚、毎年5/23の「丈山忌」の後、5/25から「詩仙堂 遺宝展」が開催され、丈山の遺愛品「詩仙堂六物」や漢詩集「覆醤集」などの貴重な品々が一般公開されるそうだ。

  • 詩仙堂(〒606-8154 京都市左京区一乗寺門口町27番地)
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