平安時代の茶の記録③平安京の大内裏茶園

平安神宮

平安京には、茶園がありました。詳細は不明ですが、嵯峨天皇が命じて作らせたのではないか、と言われています。

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平安京大内裏の「茶園」

平安京大内裏之図
見辛いが、右上に「茶園」の文字が見える。「国史参照地図」の 「第六圖 大内裏及内裏圖」より
(辻善之助 編、大正15年)※出典:国立国会図書館デジタルコレクション

茶園は、平安京内の「大内裏の東北角」、鬼門にありました。大内裏の東端は大宮大路(大宮通)ですから、茶園は二条城の北側、「中立売通りと大宮通りに面するエリア」にあったことがわかります。具体的な茶園の場所は、下記サイトの復元図が非常に分かりやすいです。

茶園跡の発掘調査結果

平成17年、「茶園跡・聚楽第跡」(京都市上京区中立売通日暮東入新白水丸町459他)の発掘調査が行われてました。調査報告書を見ると、残念ですが、平安時代のものは出土していません。

現在、発掘場所には、クロワッサンとパイの専門店「orsetto-bianco」が建っています。話が脱線しますが、このお店はとても美味しいのでおすすめです。お値段も良心的。

茶園を管理する「典薬寮」

日本喫茶史料(黒川真道 著、明治42年)
「典薬寮に茶園ありし事」出典:日本喫茶史料(黒川真道 著、明治42年) ※出典:国立国会図書館デジタルコレクション

「日本喫茶史料」(黒川真道 著、明治42年)に、平安京の茶園に関する記載があります。

典薬寮に茶園ありし事

桓武天皇延暦13年、天皇郡を山城国長岡より同国宇多に遷させ給ふ、これを平安城といふ、宮閥殿宇の規模、是に到て大に備えり。この宮内庁被管の典薬寮を、豊楽院左方に配置せられたり。典薬寮は齧薬の事 及び薬園・枸杞園・乳牛牧・茶園等の事を掌る所なり(百寮訓要抄)。

按ずるに百寮訓要抄 別註に云、典薬寮云々、茶園は主殿寮の東にあり。達智門の内、丑寅の角なりと見えたり、但富時茶園を典薬寮に於て掌しは全く薬用に供じたればなり。

日本喫茶史料(黒川真道 著、明治42年)

南北朝時代に書かれた官職制度の解説書「百寮訓要抄」(二条良基 著)を引用し、茶園について説明しています。

これによれば、内裏にあった茶園は、「典薬寮」(てんやくりょう。くすりのつかさとも読む)が管轄していました。典薬寮とは、天皇や貴族が病気になった時、薬を調合する役所のことです。

当時の茶は現代と違い高価な薬なので、医療関係部門の管轄だったのでしょう。茶園は主殿寮の東にあり、達智門の内側、東北の角にあったと言います。

「百寮訓要抄」の「典薬寮」の記述

典薬寮
典薬寮「百寮訓要抄 別註」(写し)第4巻より※出典:国立国会図書館デジタルコレクション

国立国会図書館デジタルコレクションで、「百寮訓要抄 別註」(江戸時代、大塚嘉樹 著)の写しを見ることができたので、実際にどう記述されているか調べてみました。※読めなかった部分は●としています。

典薬寮

宮内庁の被管なり。藻壁門の内 左馬寮の東に当寮なり。「和名抄」に「久須里乃豆加佐」(※くすりのつかさ)と訓せり。

当寮は薬園寺の事凡て齧道の事一切に司る。職員令日諸薬物療し掌。疾病及薬園の●●下 委し。

諸々の薬おおさめらヽ也。此寮は薬園あり。茶園枸杞の園あり。乳牛の牧とてあり。乳をとらんため也。又御井あり。諸々の薬を薬園にうへて。御井にてあらひ調ずる也。大内には皆かやうにありし事也。いと興有事也。

薬園は主殿寮の東にあり。達智門の内、丑寅角なり。薬園は唐橋の南、室町の西にあり。施薬院と枸杞園は余に其地●せり(追て可考)。乳牛院は豊楽院の別当所に在、右近馬西御井は昴当寮の南にて、談天門の内左馬寮の東にあり。拾●抄に御井町とあり。各当寮 管●する●なり。

薬園には薬園師と云もの二人又薬園坐六人ありて薬園の事を掌る也。又今の時内薬司を置くときは其れも当寮より薬物を送りし。

百寮訓要抄 別註(写し)第4巻より※出典:国立国会図書館デジタルコレクション

「薬園」「茶園」のほか、「枸杞園」「御井」(薬草を洗うための井戸)、「乳牛院」などがあったことが分かります。コロナ禍で話題になった牛乳を煮詰めて作る「蘇」も、平安時代のもので、薬として用いられていました。

枸杞の実
枸杞の実。平安時代、文徳天皇が「枸杞園」を作り、愛用していた。
枸杞は実だけでなく、根の皮は「地骨皮」、葉は「拘紀葉」と、いずれも生薬として使われてる。

尚、京都大学貴重資料デジタルアーカイブの「百寮訓要抄」(写し)や「群書類従」に収められている「百寮訓要抄」を見ると、記載されているのは太字部分のみでした。他は別註版にのみ見られるため、後世に書き加えられた部分のようです。ちなみに、典薬寮は1869年の明治維新まで、1000年近く続いたとか。

宮廷行事「季御読経」で振舞われた「引茶」「行茶」

大内裏茶園で作られた茶は、朝廷の年中行事「季御読経」(※)などで振舞われました。季御読経で僧に出す茶を「引茶」(ひきちゃ)・「行茶」(ぎょうちゃ)と言い、「引茶の儀」「行茶の儀」などが行われていました。

※季御読経(きのみどきょう):天皇の健康や国家安泰を祈願し、春と秋(2月&8月)に僧侶を集め、大般若経や仁王経を転読する仏事(「延喜式」より)。清和天皇の貞観年間には、「四季御読経」として、年4回(春夏秋冬)行われていました。

引茶とは、煎茶に、

  • 甘葛煎(あまづらせん)
  • 厚朴(こうぼく)「モクレン科ホオノキ」の樹皮を乾燥させた生薬)
  • 生薑(ショウガ)

などを加えたもので、僧の疲れを癒やしたと考えられています。中国の薬膳茶や八宝茶に近い飲み物だったようです。

ちなみに甘酢煎は、奈良女子大学で「甘葛煎再現プロジェクト」という活動があり、復元されています。一般販売はされていませんが、はちみつ並の甘さなんだとか。

生姜の入った甘いお茶は美味しそうですし、疲労や風邪にも効果がありそうです。

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