正史に残る、日本最古の喫茶の記録。それは、平安時代初期に編纂された歴史書「日本後記」にあります。当時の茶はどんなものだったのか、調べてみました。。
永忠が、嵯峨天皇に「梵釈寺」で茶を献じる

近江国滋賀の韓崎に幸す。すなわち崇福寺を過ぐ。大僧都永忠・護命法師等、衆僧を率い門外に迎え奉る。
皇帝輿を降り、堂に升り佛を礼す。更に梵釋寺を過ぐ。輿を停めて詩を賦す。皇太弟及び群臣、和し奉る者衆し。大僧都永忠、手づから茶を煎じ奉御す。
日本後紀(第六巻)
弘仁6年(815年)、嵯峨天皇は、滋賀の韓崎(現在の滋賀県大津市唐崎)に行幸の途中、梵釈寺で輿(こし)を止めて詩を詠みます。
その際、「永忠が茶を煎じて献じた」という記載が「日本後記」にあります。永忠(743~816年)は、唐に長期留学したのち、最澄と共に帰国した僧侶で、当時は梵釈寺の住持でした。
嵯峨天皇は、よほど茶が気に入ったのでしょうか。この行幸の2ヶ月後、嵯峨天皇は、諸国(畿内・近江・丹波・播磨など)に茶を植え、毎年献上するように命じています。
梵釈寺(廃寺)@滋賀県大津市
では、嵯峨天皇が茶を奉じられたという「梵釈寺」は、どこにあるのか?
梵釈寺は、嵯峨天皇の父、桓武天皇が創建した寺院です。平安時代末期に園城寺(三井寺)の末寺となり、山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)の抗争の中、衰退して廃寺となりました。そのため、残念ながら建物は残っていません。梵釈寺があったという場所は諸説あります。
No | 梵釈寺の所在地説 |
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説1 | 崇福寺跡の南の建物群(北尾根が崇福寺、南尾根が梵釈寺) |
説2 | 南滋賀廃寺跡(大正時代の1915年11月に建立された「梵釈寺旧跡」の石碑がある) |
祟福寺と梵釈寺は近接していたという「日本書紀」の記載から、現在では説1の「崇福寺跡」が有力だそうです。
崇福寺跡@滋賀県大津市滋賀里
崇福寺は、668年に天智天皇が大津京の鎮護のために建立した山林寺院で、比叡山の南東にありました。創建当初は「志賀山寺」(しがやまでら)と呼ばれ、万葉集にも「近江志賀山寺」と記載があります。
梵釈寺同様に廃絶しましたが、昭和の発掘調査で場所が特定され、比叡山の山麓の3つの尾根にあったことがわかっています。
- 北尾根:弥勒堂跡
- 中尾根:小金堂跡・塔跡
- 南尾根:金堂跡・講堂跡
建物は残っていませんが、昔の英華が偲ばれる大きな礎の石列が残っています。梵釈寺は、石碑「崇福寺旧址」の建てられた南尾根にあったのではないかと言われています。
- 崇福寺跡(文化遺産オンライン): 〒520-0006 滋賀県大津市滋賀里町甲
黄檗宗 天龍山 梵釈寺@滋賀県東近江市
ちなみに、東近江市蒲生にある、黄檗宗の寺院「 梵釈寺」は、同名なので紛らわしいのですが、別のお寺でした。
「古代の梵釈寺と関わりがある」という伝承があるようですが(本尊の「宝冠阿弥陀如来像」(観世音菩薩坐像との説も)が平安時代の作であり、古代の梵釈寺ゆかりなど)、創建時期など詳しいことは不明で、定かではありません。
- 黄檗宗 天龍山 梵釈寺:〒529-1521 滋賀県東近江市蒲生岡本町185
永忠が献じた茶は、どんな茶だったのか?
永忠が嵯峨天皇に献じた茶は、中国から持ち帰った茶葉なのか。それとも日本で栽培し、製茶したお茶なのか。
記録がないので仮説ですが、「献茶を行ったのは、永忠の帰国10年後」のことですから、最澄と同じく「茶の種子を日本に持ち帰り、植えて育てていたのではないか」と思います。※永忠は、805年に最澄と共に帰国しています。

釋永忠。京兆人。姓秋篠氏。宝亀之初入唐留学。延暦之季随使?涉經論解音律。善攝威儀齋戒無缼。
桓武帝敕主梵釈寺。弘仁七年四月滅。歳七十四。遺表上唐所得律呂旋宮圖。日月圖。各二卷。律管十二枚。塤一枝。
元亨釈書 第16巻(1558年,虎関師錬 著/大菴呑碩 写)※出典:国立国会図書館デジタルコレクション
永忠は遣唐使として中国に渡り、長安の西明寺に住み、30年もの長きに渡り、中国に滞在していました。帰国後は、桓武天皇の勅命により、梵釈寺の住持となります。
唐代の寺院には境内に茶畑があり、僧侶が茶摘みや製茶をしていましたから、「永忠も茶に関する技術を習得し、梵釈寺で茶を作っていたではないか」と考えられます。
平安時代に伝わった、唐代の喫茶法「煎茶法」
では、当時の唐から伝わったお茶は、どんなものだったのか?
具体的な製茶方法や飲み方は記録がないので、詳しいことは分かっていません。崇福寺跡からも、茶に関する遺物などは出土していませんでした。日本後記に「手づから茶を煎じ奉御す」とあることから、唐代に新しく産まれた「煎茶法」で淹れた茶ではないか、と推察します。
「煎茶法」は、陸羽(733~804年)が提唱した喫茶法で、茶を煮出して飲む方法です。そして、永忠は、陸羽と同時代の人です。
陸羽が書いた世界最古の茶書「茶経」(760年頃)の「五之煮」の章に、詳しく記載されています。※陸羽は「煮茶」の語を好んで使っていたようですが、「煎茶」の方が定着していったそうです(※参考1)。

茶経の「五之煮」(茶の淹れ方)
- 餅茶(茶葉を固めて乾燥させた固形茶)を炭火で炙る
- 紙の袋で餅茶を冷やし、「茶碾」(ちゃてん)で挽き、粉末にする
- 「羅合」(らごう)で、茶をふるいにかける
- 平鍋に水を入れ、風炉で火にかける
- 湯が沸いたら(一度目。魚眼の気泡)、塩を入れる
- 瓢(ひさご)で湯をひとすくいし、汲み出す
- 湯が沸いたら(二度目)、竹箸で湯の中央をくるくる回し、茶の粉末を入れる
- 湯が沸いたら(三度目)、汲み出した冷まし湯を鍋に戻し、鍋を火から降ろす
- 湯の表面に「茶の華」(泡)が咲いたら、茶湯を茶碗に注ぐ
永忠が30年滞在した西明寺の「石茶碾」

このほかに、永忠に関わる茶の記録はないのか。永忠が滞在した長安の古刹「西明寺」は?
西明寺(658~845年)は、唐代に長安の延康坊にあったお寺で、唐の高宗の勅願による開創です。三蔵法師こと玄奘が、インドから持ち帰った経典を西明寺に持ち帰り翻訳したほか、永忠・空海をはじめ、日本の留学生・留学僧が数多く滞在していました。
残念なことに、西明寺は唐代末期は武宗の時、廃仏毀釈令により破壊されてしまったそうです。ただ、1985年の西明寺遺跡の発掘で、「西明寺」と刻まれた「唐代の石の茶碾」が出土しました(※2)。※茶碾:上図2の道具で、「やげん」のこと。
この茶碾から、当時、西明寺では「茶碾で茶を挽いて粉末にし、茶を飲んでいたのではないか」と考えられます。当然、西明寺に長期滞在していた永忠も、この茶を嗜んでいたことでしょう。
これらのことから、仮説ではありますが、永忠が嵯峨天皇に献じた茶は、「煎茶法で淹れた、固形茶を煮出した茶」だったのではないでしょうか。
- ※1:中国茶文化における「煎茶」の語と伝統の形成(2014/1/31, 高橋忠彦)
- ※2:西安之寶·西明寺石茶碾——見證唐長安城的興衰(2018/5/21)