佐賀県の売茶翁ゆかりの地をまとめました。
まだ実際に足を運べていないので、具体的な場所(番地)が分からない所もありますが、ご参考にどうぞ。
佐賀市
旧柴山家住宅|売茶翁生誕の地
売茶翁は、肥前蓮池(佐賀市蓮池町)の出身。
延宝3年(1675年)、柴山家の三男として産まれました。幼名は「菊泉」。父は、蓮池鍋島藩の藩主・鍋島真澄に仕える御殿医でした。
8歳の時に父と死別し、黄檗宗・龍津寺に入門するまで生家で過ごしました。柴山家住宅は、龍津寺の南にあったと言います。その後、移築・改築されながら、佐賀市蓮池町に昔のまま現存しています。
- 旧柴山家住宅(佐賀県佐賀市蓮池町道畹 ※旧:肥前国神崎郡蓮池の南道畹)
宝寿山 龍津寺|売茶翁が出家した寺
貞享3年(1686年)、売茶翁は11歳の時に出家し、僧名の月海を授かります。
黄檗宗・龍津寺は、鍋島藩2代藩主・直之の庇護を受けた化霖道龍(1634~1720年)の開山です。売茶翁は化霖に仕え、修行に励みました。元禄9年(1696年)体調を崩し、22才で諸国に修行の旅に出ます。元禄元年(1688年)33才の時に龍津寺に戻り、57歳までの14年間、職務にあたりました。
化霖の死後、享保16年(1731年)弟弟子の大潮元皓が龍津寺の住持となり、売茶翁は上洛し、68歳まで各地と佐賀を行き来します。
昭和20年8月の戦災で龍津寺は消失し、現在は仮本堂と六地蔵塔・お墓が残るのみとなっています。境内には「売茶翁顕彰碑」と柴山家のお墓があります。2018年には、売茶翁を紹介する案内板が設置されました。
- 龍津寺跡(〒840-0006 佐賀県佐賀市巨勢町東西)
雷山|売茶翁が一夏の間、苦行をした地
福岡県と佐賀県の県境近く、筑紫にある雷山(いかづちやま)は、売茶翁が苦行をした地。江戸時代の見聞録「落栗物語」には、以下の記載があります。
雙の岡の麓に、賣茶翁と云人あり、年八十餘りて、頭は白き蓬を戴たる如し、髭長くして膝を過ぬべし、(中略)
後に肥前國蓮池殿に仕ふる侍、翁のことをよく知りて、此人は龍津の化霖禅師の上足の弟子なり、十一歳より家を出て、霖師に従ひ論語をよみ禅を學び、二十餘りにて諸國を行脚し、奥州の耕、黄檗の濁湛なんど云ふ名師に謁して道をみがき、夫より西に帰りて、筑紫の雷山の奥に引き籠り、松の陰苔の上に起ふし、麦の粉と云物を袋に入て持じを、少づつ食て、谷水を汲て喉を潤し、一夏の間座禅し、又寺に帰り霖師に仕ふることもとの如し
落栗物語(亜相家孝卿 ※藤原家孝とも。「百家随筆」より)
売茶翁は雷山の奥に引きこもって、松の木陰の苔の上で寝起きし、麦の粉を袋にいれて持っていたものを、少しずつ食べながら、谷の水を汲んで喉の渇きを癒し、一夏の間、座禅を組んで過ごしたといいます。
肥前通仙亭|売茶翁の功績顕彰のために後世に建設
ちなみに売茶翁の足跡から少し脱線しますが、佐賀は、売茶翁の功績を顕彰して「 肥前通仙亭」という地場産品の交流会館が建てられています。高遊外売茶翁顕彰会が運営しています。
平成22年に開館し、売茶翁直筆の書など、売茶翁に関する貴重な史料が展示されています。建物の前には、売茶翁直筆の詩と、若冲筆の売茶翁の肖像画が描かれた顕彰碑が建っています。
売茶翁85才の時の書「三省」とは、中国の曾子(そうし)の言葉で、「毎日何度も自らの行いを反省する」という意味です。佐賀観光の紹介動画で、館内の様子を見ることができます。
- 肥前通仙亭(〒840-0831 佐賀県佐賀市松原4丁目6番18号)
嬉野市
円明寺跡|売茶翁の師「化霖和尚」の寺
円明寺(延明寺)は、売茶翁の師・化霖和尚が住んでいたお寺です。
寛文五年、塩田町に隠居していた鍋島藩主・鍋島直澄は、馬場下村下野辺田に「慈眼山 円明寺」を建立します。寺跡裏の岩場には、化霖和尚のお墓があります。
その後、佐賀市巨勢町の龍津寺の和尚が住持していましたが、明治の初めに廃寺となりました。
- 円明寺跡(佐賀県嬉野市塩田町下野辺田)
柴山権現|売茶翁の父の墓
売茶翁(柴山元昭)の父「柴山杢之進常名」の墓も、同じ嬉野市塩田町にあります。
柴山杢之進常名は、天和3年1月に江戸で死去しました。売茶翁が9才の時のことです。お墓は、嬉野市塩田町五町田小学校北側の桜谷(五町田小学校とんとん坂の西側)にあり、地域では「柴山権現」と呼ばれているそうです。
- 柴山権現(嬉野市塩田町五町田小学校北側)
- 参考:佐賀の茶文化(高遊外売茶翁顕彰会)