江戸時代、隠元禅師が日本に伝え、売茶翁が広めた煎茶。煎茶道と関係が深い、黄檗宗&黄檗文化についてまとめました。
黄檗宗とは?
黄檗宗(おうばくしゅう)は、曹洞宗・臨済宗と並ぶ、日本三禅宗の一つ。最も遅く日本に伝来しました。本山は、京都府宇治市にある黄檗山 萬福寺(まんぷくじ)。本尊は、釈迦如来。
黄檗宗では、法式(儀式作法など)やお経もすべて中国で行われていたものを忠実に継承しています。
特にお経は独特で、唐音とよばれる中国語を基本とする読みをします。たとえば、一般的によく詠まれる般若心経でいうと「まかはんにゃはらみたしんぎょう・・・」と唱えるところが「ポゼポロミトシンキン・・・」という具合になります。
開祖・隠元禅師
江戸時代、黄檗宗の高僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師と共に、中国(明の時代)から渡来した一行が伝え、広まったのが黄檗宗と黄檗文化です。
隠元禅師は、中国福建省の黄檗山 萬福寺の住職で、日本からの再三の要請に応じて来日し、日本に黄檗宗をもたらしました。
黄檗の由来
「黄檗」(おうばく)という呼称は、唐の僧・黄檗希運の名に由来します。黄檗希運は、臨済宗の開祖・臨済義玄の師であり、黄檗宗は「臨済正宗」「臨済宗 黄檗派」とも呼ばれていたそうです。
※尚、植物の黄檗は、ミカン科のキハダです。キハダの樹皮は、古来より染料や薬に用いられています。
- 参考:自然を染める キハダ(高崎市 染色植物園HP)
- 参考:キハダ~役に立つ黄色の力~(くすりの博物館)
黄檗宗から伝来したもの
黄檗文化の範囲は広く、仏教だけでなく、美術(書・絵画・彫刻・篆刻など)、食(普茶料理、煎茶、隠元豆、西瓜など)など、生活文化にも渡ります。
萬福寺の伽藍建築・文化などはすべて中国の明朝様式です。
美術・建築・印刷・煎茶・普茶料理、隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹(タケノコ)・木魚なども隠元禅師が来られてから日本にもたらされたものであり、当時江戸時代の文化全般に影響を与えたといわれています。
中でも中国風精進料理である「普茶料理」は、日本の精進料理(禅僧が日常食する質素な食事)とイメージが異なっています。
見た目も美しく盛りつけられる料理の数々は、高タンパク・低カロリーで栄養面にも優れ、席を共にする人たちと楽しく感謝して料理を頂く事に、普茶料理の意味が込められています。
日本にもたらされた黄檗文化
煎茶やインゲン豆などの食文化から、明朝体や原稿用紙まで、身近なものが多く、黄檗文化は日本に浸透し、日本の文化の一部となっています。
- 煎茶 :釜炒りの緑茶
- 普茶料理 :肉・魚を使わない。もどき料理など。普茶料理のお店一覧
- インゲン豆 :名称は「隠元禅師」から
- 孟宗竹
- 明朝体
- スイカ
- タケノコ
- カボチャ
- レンコン
- ソーメン(索麺)
- 仏具 :木魚、銅鑼(チャッパ)、蟠桃など)
- 原稿用紙 :400字詰め、中央に見出し欄など。元々は写経に用いられた
- 読経の梵唄(ボンパイ)
- ちゃぶ台(茶普台・茶袱台 ・卓袱台) ※諸説あり
また、「寒天」の名付け親は、隠元禅師なんだとか。
江戸時代は1600年代中頃、参勤交代途上の薩摩藩主島津公が宿泊した宿の主人美濃屋太郎左衛門は、夕食の残りのところてんを戸外に放置したところ、数日後には干物状になっていました。これが寒天の始まりです。
隠元禅師は、このような清浄感のある食べ物は仏門につかえる者に最適であるとし、「寒晒しのところてん」の意から寒天と名付けたそうです。
株式会社 虎屋「隠元禅師と寒天」