京都の青物問屋の長男として生まれた、伊藤若冲。奇想の画家と呼ばれ、売茶翁とも関わりが深い江戸時代の絵師です。「売茶翁なくして若冲なし」と言う研究者の方もいます。そんな伊藤若冲と売茶翁の関係について、まとめました。
※上記の画は「葡萄双鶏図」(伊藤若沖筆、1792年、一部抜粋)※所蔵:メトロポリタン美術館(CC0 Public Domain Designation)
「若冲」の名の由来

売茶翁73歳の時、友人と「糺の森」で煎茶を楽しんでいた時のこと。
相国寺の大典顕常(1719~1801。当時29歳)が、売茶翁の茶器「注子」(水差し)に「大盈若冲」(たいえいはむなしきがごとし)と記しました。この「若冲」が、画家・若冲の名の由来ではないかと言われています。
この年、若冲は32歳。売茶翁とは約40才差と、祖父と孫くらいの年齢差です。

老子の「大盈若冲」
では、「大盈若冲」とはどのような意味なのか。この言葉の出典は、中国の思想家・老子の書「道徳経」(通称「老子」)にあります。

大盈(たいえい)は冲(むな)しきが若く、その用は窮まらず
「盈」は満ちるという意味。真に満ち足りているものは、空虚に見えても、その働きは尽きることがない。
ちなみに、20世紀を代表する禅学者・鈴木大拙の「大拙」という号も、同じくこの第45章の「大巧は拙(つた)なきが若く」に由来するそうです。
売茶翁の「注子」に大典禅師が記す
大典禅師はこの老子の言葉を踏まえ、売茶翁の茶具にしたためました。その全文を、「売茶翁茶器図」で確認することができます。

梅荘禅師 銘
去濁抱清 縦其灑落 大盈若冲 君子所酌
丁卯之夏日 東湖散人
望子糺林水涯
売茶翁茶器図 (木村孔陽 1924年)
「濁を去り清を抱き、其の灑落(さいらく)を縦(ほしいまま)にす。大盈は冲しきが若し、君子の酌む所」。この注子(水指)は、今も相国寺に残っているとか。
ちなみに、「冲」(chōng)は、中国語の方言「広東語」では、「お湯などを注ぐ」という意味です。茶を淹れることは「冲茶」。
当時この意味をかけた訳ではないでしょうが、茶の席で「注子」に書いた言葉としては、あまりにできすぎていて、「茶を飲みながら、戯れにかけことばを書いたのではないか…」と勘ぐってしまいます。

書籍「煎茶への招待」(小川後楽 著)によれば、 売茶翁と若冲を引き合わせたのは、大典ではないかと言われています。禅に傾倒していた若冲は相国寺に一時身を寄せており、大典は若冲の支援者でした。
もう1つの可能性としては、売茶翁の茶席で、若冲は大典と出会ったのかもしれません。今となっては真実は分かりませんが、茶がつないだ縁と言うのも、1つの歴史のロマンです。
若冲の代表作「動植綵絵」
若冲の最高傑作と言われる極彩色の「動植綵絵」。中国絵画の影響を色濃く受けた、華やかな絵です。製作途中のこの絵を、若冲は売茶翁に見せています。
売茶翁が送った賛辞「丹青活手妙通神」
1760年、若冲の「動植綵絵」を見た売茶翁(86才)は、「丹青活手(たんせいかっしゅ)の妙、神に通ず」と一行書を贈り、若冲の絵の才能を神技と褒め称えました。
この言葉に感激した若冲は、「丹青活手妙通神」の言葉を印章に刻み、動植綵絵に捺印しています。また、晩年に描いた「百犬図」にも、この印を押しています。
若冲は、売茶翁から送られた一行書「丹青活手妙通神」(1760年、売茶翁 筆)を添えて、相国寺に絵を寄進しました。その後、この一行書は「動植綵絵」と共に明治天皇に献納され、皇室に保管されています。

若冲の絵に寄せられた、売茶翁の賛
髑髏図
売茶翁は、若冲の画に度々賛(※)を直筆で寄せています。拓本画「髑髏図」に、売茶翁の賛を見ることができます。この「髑髏図」は、若冲及び伊藤家の菩提寺である「宝蔵寺」が所蔵しています。
一霊皮袋 皮袋一霊
古人之語
八十六翁
高遊外髑髏図(伊藤若冲 画、高遊外 賛)
皮袋(ひたい)とは、人間の肉体のこと。
「古人之語」(昔の人のことば)とあるように、大慧宗杲禅師(※)の「即此形骸 便是其人 一霊皮袋 皮袋一霊」を引用したものではないかと思います。「この髑髏も人であり、その逆も真。姿を変えても人は人であり、髑髏も髑髏」と言った意味。ちなみに若冲は、他にも幾つかガイコツの絵を書いています
※賛‥絵画の余白に書き加える画賛のこと。その画を褒め讃えたり、画に寄り添う詩や禅語などを書き添えたりしたもので、作品の一部とみなされる。
※大慧宗杲(だいえそうごう。1089~1163年)‥中国の宋代の臨済宗の禅僧。姓は奚。字は大慧。号は妙喜。正法眼蔵(六巻)の著者。
菊石図

達筆すぎて読めず、残念でならないのですが、上記の「菊石図」にも高遊外としての賛があります。
※2021/4/5追記:こちらの賛は、「未覚秋容寂 猶存晩節香」と書かれているそうです。「伊藤若冲が描く売茶翁像」について研究されている方から教えて頂きました。O様、ありがとうございました。
未覚秋容寂 未だ 秋容の寂たるを覚えず
猶存晩節香 猶 晩節の香り 在るがごとし
晩節香(晩香とも)は菊のこと。原典はわからないのですが、当時有名な漢詩の一節だったようです。
若冲の描いた売茶翁

若冲の作品は動植物が中心であり、人物画はあまり描いていません。
釈迦・布袋・寒山拾得・六歌仙・関羽など、過去の偉人や僧は描いていますが、同時代の肖像画は「蒲庵浄英像」(萬福寺の第二十三代住持)くらいではないでしょうか。
若冲の絵は、動植物を主題とするものが多く、仏教の「山川草木悉皆仏性」に即したのではないか、と思います。そのような中、売茶翁の肖像画は何度も描いています。相国寺にも「売茶翁高遊外像」( 梅荘顕常賛)が残されています。「求めに応じ、同じものも何枚も描いた」という面もあるでしょうが、何より心から敬愛していたのでしょう。

上記は、全国煎茶道連盟の第60回の煎茶道大会の記念品。いつ描かれた絵か分かりませんが、若冲による売茶翁像です。道服を身にまとい、茶道具をぶら下げた天秤棒を肩に担いでいます。左の網袋に入っているのは涼炉でしょうか。この絵の売茶翁は眼光が鋭く、天秤棒の木の質感がリアルに描かれています。目の色が薄いので、異国風の印象を受ける風貌です。
売茶翁は自らのことを「黒面白鬚窮禿奴」、つまり「黒い顔に白いヒゲ、貧乏なハゲ頭の男」と表現していましたが(「賣茶偶成三首」より)、顔は白く額が広く、縮れた灰色の髪と髭の姿で描かれています。そして、どうやら福耳だったようです。
売茶翁像(1757年)

若冲が42歳の時に描いた「売茶翁像」です。落款は「若中」となっています。顔の部分のみアウトラインが白く残る「筋目描き」の技法で描かれており、目も黒目がちで好々爺のような柔和な印象です。若冲は同じ構図の売茶翁像を何枚も描いており、この版には、売茶翁(83才)が直筆で漢詩を寄せています。
処世不知世 世を処するに 世を知らず
為禅不会禅 禅を学んで 禅を会(え)せず
只将一担具 但だ将に 一つの具を担ぎ
茶茗到処煎 茶茗(さめい)を 到る処に煎る
到処煎無人買 到る処に煎るも 人の買うこと無く
踽々独渡溪川咦 踽々(くく)として独り 渓川(たにがわ)を渡る
何物好事謾描出 何物かの好事(こうず) 謾(みだ)りに描き出す
一任天下人粲然 天下に一任する人 粲然(さんぜん)たり高居士遊外自題 時年八十三
売茶翁像(伊藤若冲 画、売茶翁 賛、1757年)
「売茶翁偈語」の巻頭にも、一部の句を変えて、この漢詩が掲載されています。
具体的には、「踽々独渡溪川咦」の部分が「空擁提籃坐渓辺咦」(空しく提籃を擁して渓辺に坐す 咦(い/わらうべし))となっています。
売茶翁像(1763年以前)

売茶翁がこの世を去った宝暦13年(1763年)、親交のあった友人らがまとめた「売茶翁偈語」。その表紙の扉絵を、若冲の「売茶翁像」が飾っています。自ら描いた売茶翁像を写生したのでしょうが、頬がこけ、あごが突きでており、まばらな歯で描かれています。
橋図(1764年以前)
こちらの軸は、上記で紹介した「売茶翁像」(1757年)の橋の下の部分が描かれています。「橋脚図」という画名で、同じ軸があります。二之橋の下で茶を振る舞った、売茶翁を偲ぶ「留守文様」(※)の一幅です。恐らく、年代から「売茶翁が亡くなった後に描かれた作品」ではないかと。そう考えると、余白が喪失感を表しているよう。
※留守文様:人物を描かず、関係ある情景や物を描くことで、その人を表現する表現技法。

若冲にとって売茶翁は心の師、精神的支柱のような存在だったのではないかと思います。売茶翁は87才で逝去したので、若冲(1716-1800年)が売茶翁(1675-1763年)と同時代に生きた時間は、それほど長くはなく14年間ほどでした。
同じ構図の絵が何枚か残っており、無染浄善の賛が入っている「橋図」や、絵の持ち主が若冲の思いを汲んだと見られる、煎茶道具が描かれた表装の橋図も。かなり地味な絵なので、展覧会などで目にすることは少ないですが、売茶翁と若冲の関係性を知った上で見ると、感慨深いものがあります。
- 橋図(伊藤若冲 筆、1785年 三好喜敏 賛、個人蔵):煎茶道具の表装の一幅
若冲が74歳の時の作品です。よく見ると、右手が天秤棒にかかっておらず、棒が宙に浮いています。
売茶翁は既に亡くなっていますし、筆跡も全く異なりますから、木村孔恭(木村蒹葭堂)が書きつけたものと思われます。几帳面な字で、「売茶翁偈語」の偈が記されています。こうして見比べると、同じ若冲の絵でも、かなり売茶翁の印象が
晩年、黄檗宗に帰依

58歳となった若冲は、黄檗山・萬福寺に参禅して出家し、黄檗宗に帰依。この時、師の伯伯珣照浩(萬福寺20代住持)から道号「革叟」(かくそう)と僧衣を与えられました。

若冲は、萬福寺の「境内図」や、隠元禅師ゆかりの「隠元豆図」(和歌山県・草堂寺蔵)、黄檗宗・海宝寺に障壁画「群鶏図」を描いています。黄檗宗の寺院「閑臥庵」には、若冲の十二支版木があり、その歳の干支のみ刷ったものが展示してあります。
鶴亭などの黄檗僧の画風の影響も受けていましたし、若冲にとって黄檗宗との関わりはとても深いものでした。
画号「斗米庵 」「米斗翁」

売茶翁の生き方に憧れ、自ら「斗米庵」(とべいあん)や「米斗翁」(べいとおう)と名乗った若冲。その名の通り、絵一枚を米一斗(銀六匁)として収入とし、生活を立てます。売茶翁と同じく、妻や子供のいない生涯独身であったからこそ、できたことだと思います。
しかし、天明8年(1788年)に「天明の大火」で京都の家を焼失。大阪や京都を転々とした後、70代後半から黄檗宗の「石峰寺」の門前に草庵を結んで隠棲。晩年の一大事業として、石峰寺の「五百羅漢」の石像制作を開始。年老いた身の上、生活も困窮していたと言います。
83才頃、石峯寺の観音堂の為に天井画「四季花卉図」(しきかきず)を描きます(※現在、この天井画は、168面が京都の信行寺に、15面が滋賀県の義仲寺にあります)。
その2年後の寛政12年(1800年)、85才で亡くなりました。売茶翁同様(※87才で逝去)、若冲も長命でした。亡くなる年にも「鷲図」「伏見人形図」を描くなど、最後まで筆を折らず、絵師としての生涯を終えました。若冲が眠る石峰寺のお墓には、「斗米庵 若冲居士墓」と刻まれています。
