茶話

伊藤若冲の五百羅漢石@椿山荘

売茶翁と関係の深い伊藤若冲。晩年は、五百羅漢像の制作に心血を注ぎました。その羅漢石の一部が、なぜか東京にあります。

若冲の五百羅漢像

若冲が下絵を描き、石工が彫った五百羅漢像は、石峰寺の裏山にあります。天明7年秋に刊行された「拾遺都名所図会」では、「石像五百羅漢像」として紹介されています。

石像五百羅漢像 

深草石峰寺後山にあり。中央釈迦牟尼仏、長六尺許の坐像にして、周に十六羅漢、五百の大弟子囲繞し、釈尊霊鷲山に於て法を説給ふ体相なり。羅漢の像おのく長三尺許、いづれも雨露覆なし、近年安永の半より天明のはじめに至つて約莫成就す。花洛画工寂中老石面に図して指麾す

※出典:「拾遺都名所図会」(1787年、秋里籬島 著、竹原春朝斎 図版)

若冲の羅漢石@椿山荘

その石像の一部が、なぜか東京都目白の「椿山荘」に存在します。

※石峰寺は撮影禁止ですが、椿山荘の庭園は拝観無料、自由に写真撮影することができます。

椿山荘の説明板によれば、「京都伏見の石峰寺にあったものを大正14年頃に移された」と記載されています。約20体の羅漢像があるとのこと。

なぜ、若冲の羅漢像が東京にあるのか?

羅漢石(伊藤若冲)@椿山荘

石峰寺は明治時代に一時荒廃し、羅漢像もかなりの数が散逸したとか。一方、椿山荘は、明治11年に作られた山縣有朋のお屋敷で、その後、大正7年に藤田平太郎の所有となり、整備されたと言います。

椿山荘の歴史

  • 1878年(明治11年):山縣有朋公爵が椿山を購入。「椿山荘」と命名、林泉回遊式庭園を作庭
  • 1918年(大正7年)  :藤田財閥の二代目当主、藤田平太郎男爵の所有となる
  • 1925年(大正14年):石峰寺から羅漢石を移された?

羅漢石が移されたという大正14年には、広島の竹林寺の三重塔「圓通閣」(国登録有形文化財)も、椿山荘に移築されています。

三重塔「圓通閣」@椿山荘

三重塔「圓通閣」@椿山荘

その他にも椿山荘の庭園には、大正13年に京都の下鴨神社の白玉稲荷神社の社殿が移築されていたり、織田信長の弟、織田有楽ゆかりと伝わる「十三重の石塔」があったりと、歴史を偲ばせる文化財がそこかしこにあります。よほどの数寄者であったようです。

大阪の藤田家庭園から移される

調べた所、藤田平太郎の妻、藤田富子が記した「椿山荘記」に、石像に関する記録がありました。大阪の藤田家にあった羅漢像が、東京の椿山荘に移されたそうです。

堂のまわりは熊笹の丘で、石の羅漢仏十数体を点々と配置してあります。この石仏は若冲の下画と称し、古くより大阪網島の藤田家の庭園にあつたものを移した。

※出典:椿山荘記(藤田富子、1952年)

旧藤田本邸は、現在「藤田邸跡公園」となっており、当時の財力を伺わせる、広大な土地です。

石峰寺から羅漢像が持ち出された理由

そもそも、なぜ羅漢像が、石峰寺から持ち出されることになったのか。

詳しい経緯は不明ですが、石峰寺は明治時代に一時荒廃し、羅漢像もかなりの数が散逸したとか。時代背景を考えると、明治の廃仏毀釈の影響ではないか、と思われます。藤田平太郎の父、藤田伝三郎は数寄者&美術品のコレクターとして有名な方で、そのコレクションを収容した「藤田美術館」があるくらいです。その関係で、羅漢像を入手したのかもしれません。

おわりに

若冲が晩年を注いだ羅漢石、元あった石峰寺に戻してあげたい気がします。

風雨にさらされ角がとれ、苔むした石像は、どこふく風。