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茶話

鎌倉時代に中国から伝来した茶

茶の木

茶は養生の仙葉なり」。臨済宗の開祖・栄西禅師は日本最古の茶書「喫茶養生記」を著し、茶祖と呼ばれています。今に残る、鎌倉時代に伝わった栄西ゆかりの茶木&茶園をまとめました。

栄西が宋から持ち帰り、植えた茶

脊振山 霊仙寺跡@佐賀

梅山種茶譜略

先筑前州 脊振山に植ゆ「梅山種茶譜略」(高遊外 著、天保9年)

1191年(建久2年)、栄西禅師(1141-1215)が、筑前の「脊振山」(せふりさん)の中腹に茶を植えたと言う記録があります。

「梅山種茶譜略」(1838年)において、売茶翁は「茶は上古より我が朝にあり」と、既に日本に茶があったことを述べつつ、建久 2 年に栄西が茶を持ち帰ったことを記載しています。

建仁 栄西禅師 法の為め再宋に入て。建久二年東に帰る。茶子を持し来り。

嘉種を得来と云て所を指す。先筑前州 背振山に植ゆ。

而茶子を梅尾山 明慧上人に奉す。上人。即所居の地に就て植え。精製して専賞す。

尓れより漸く四方に播して。賞茶の者多し。

※出典:梅山種茶譜略 (高遊外 著、天保9年)

「茶子一夜にして根芽を生ず」石上坊に茶を植える

茶の木の新芽

留学していた中国(宋)から帰国した栄西は、布教のために「背振山」(せふりさん)の「霊仙寺」(りょうせんじ)に滞在しました。

栄西が茶を植えた場所は、旧東脊振村の霊仙寺内の「石上坊」(いわかみぼう)の庭と言われ、茶の種を播いて茶の製法を伝授し、喫茶の風習を広めました。

脊振山は、福岡県と佐賀県の県境にある天台密教系の山岳仏教の聖地で、平安~鎌倉時代には「脊振千坊」(せふりせんぼう)と呼ばれるほど栄えた修験の山でした。中国に渡る人々の信仰を集め、栄西だけでなく、空海・最澄など、多くの僧侶が航海の安全を祈願したと伝えられています。

霊仙寺は戦国時代に荒廃後、鍋島家の助力で一時復興しますが、1872年(明治5年)に閉山してしまいました。現在は、江戸末期に10代藩主の鍋島直正公が建立した「乙護法堂」(おとごほうどう)の一堂が残るのみです。

「日本最初之茶樹栽培地」の石碑

「乙護法堂」の近くには、「日本最初之茶樹栽培地」の石碑があります。

今の茶園は、江戸時代に各坊が経営していたものが残ったもので、1775年(安永5年)の水上坊からの指出書によれば、霊仙寺一帯に9反5畝(95アール)の広い茶園があったと言います(茶園の立て看板より)。

 萬善坊 茶園畠 3反
 香善坊 高坊地 茶園畠 5畝
 香善坊 西谷内 茶園畠 2畝
 香善坊 大川脇 茶園畠 1反7畝
 石上坊 西谷茶園 2反
 北谷坊 芝宮松下茶園 1畝
 北谷坊 水ほき茶園畠 3畝
 土橋坊 高坊地茶園畠  3畝
 土橋坊 西谷茶園畠  1反4畝

鎌倉時代以前にすでに茶の木は伝わっていましたので、日本最初ではないのですが、栄西が喫茶の風習を広めた顕彰の石碑なのでしょう。尚、佐賀県東脊振地区の吉野ヶ里町では、栄西禅師にちなみ、釜炒り茶の「栄西茶」を販売しています。

  • 日本最初之茶樹栽培地(東脊振村 肥前史跡会。吉野ヶ里町が設置)
  • 栄西茶 ※以前は岩上茶の名で販売

龍燈山 千光寺の「冨春園」@長崎

1191年(建久2年)7月、栄西は中国(宋)より帰国し、平戸葦浦(現在の古江湾)に帰港し、九州で仏教の布教活動を開始します。背振山に茶を蒔いた同年、「長崎県平戸に茶園を開いた」と伝えられています。 

平戸市木引町の千光寺傍に「日本禅宗発祥之地 冨春庵跡」がある。
栄西禅師が 1191 年(建久 2 年)、宋から平戸にたどり着き、「冨春庵(ふうしゅんあん)」を建て禅宗を広めた。茶種を裏山に蒔き、製茶や喫茶(抹茶)の法を教えた。
※出典:栄西と『喫茶養生記』(岩間眞知子 著)

栄西は、浙江省の大河・富春江にちなみ、禅院を「冨春庵」、茶園を「冨春園」と名付けたと言われています。

日本禅宗発祥之地「冨春庵跡」

「冨春庵」は、戸部侍郎(※古代の官職)の清貴が、栄西の為に新たに建設した禅院です。1191年8月8日、栄西はこの「冨春庵」で日本で初めて座禅を行ったと言われています。

その後、冨春庵は廃れ、江戸時代の元禄8年(1695年)に第5代平戸藩主・松浦棟が「龍燈山 千光寺」として再建し、現在に至っています。平戸市木引町の千光寺の傍には「日本禅宗発祥之地 冨春庵跡」があり、「冨春茶園」が残されています。また、付近には、栄西禅師が座禅したといわれる「座禅石」があります。

背振山と冨春園のどちらも「栄西が初めて茶を植えた」と言われていますが、確たる記録は見つかりませんでした(栄西の岩上坊の居住時期や、冨春庵の創設時期が不明)。

茶の種子の寿命は短く、「夏を越すと、約80%は発芽力を失う」と言います。栄西が帰国したのは7月であり、持ち帰ったのが種子であれば、帰国後すぐに逗留先・布教先のお寺で茶を蒔いたのではないでしょうか。また、「茶木を持ち帰ったのでは」という説もあり、はっきりしたことは分かりませんでした。

安国山 聖徳寺@福岡

福岡県にも、栄西上人ゆかりの茶があります。博多の聖徳寺と筑後の千光寺です。

聖徳寺は、1195年(建久6年) に栄西が開山した日本初の禅寺で、後鳥羽上皇より「扶桑最初禅窟」の号を賜り、山門の楼上に掲額されています。脊振山の茶樹を、聖徳寺に移植したと言われてます。

聖徳寺の茶園は秀吉の時代に分割されたため(現在の唐人町)、現在は当時の茶畑は残っていません。平成の時代になってから、脊振山の石上坊跡に自生する茶の木が聖福寺に移植されています。

龍護山 千光寺@福岡

千光寺は1193年に栄西が開山し、茶を植えたと伝えられるお寺です(栄西は千光国師とも言われています)。茶園についての記録は見つかりませんでしたが、念のため載せておきます。

尚、久留米市の近隣・八女市星野村の「星野茶園」には、栄西800年法要を記念した「榮西」の茶銘の抹茶があります。

栄西から贈られ、明恵が植えた茶

栂尾山 高山寺@京都

高山寺の新緑

鳥獣戯画で有名な高山寺には、栄西が宋から持ち帰ったという茶が伝わっています。

栂尾明恵上人伝記」(明恵の弟子による記録)によれば、明恵上人(1173-1232)は栄西から贈られた茶の種をこの地に播き、茶の栽培を始めたと書かれています。

栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を明恵につたえ、山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。

最古の茶園は清滝川の対岸、深瀬(ふかいぜ)三本木にあった。中世以来、栂尾の茶を本茶、それ以外を非茶と呼ぶ。「日本最古之茶園」碑が立つ現在の茶園は、もと高山寺の中心的僧房十無尽院(じゅうむじんいん)があった場所と考えられている。現在も、5月中旬に茶摘みが行われる。

※出典:高山寺ホームページ

中世、栂尾茶はその質の高さから「本茶」と呼ばれ、毎年天皇に献茶が行われていました。また、栂尾茶以外のお茶を「非茶」(ひちゃ)と呼び、本茶・非茶を飲み当てる遊び「闘茶」(※)が流行するようになりました。

※闘茶(とうちゃ) 茶葉の見た目や香り、茶の水色や味などから、その茶や水の産地をあてるもの。 中国発祥の遊戯で、日本では「茶歌舞伎」「茶香服」「茶寄合」とも呼ぶ。

栄西が宋から持ち帰った茶壺

漢柿形茶壺・高山寺蔵「京都茶業写真総覧」(京都府茶業組合聯合会議所 大正13年)

左:外袋に収められた木製漆塗の外箱、右:柿型の茶壺・高山寺藏「京都茶業写真総覧」(京都府茶業組合聯合会議所 大正13年)

高山寺には、栄西禅師ゆかりの茶壺「漢柿形茶壺」(あやのかきべたのちゃつぼ)が寺宝として伝来しています。

「柿蔕茶入」(かきのへたのちゃいれ)「漢の小柿」(あやのこべた)などとも呼ばれており、南宋時代の陶器の壺で、栄西禅師はこの壺に茶の実を入れ、明恵に送ったと伝えられています。

高さ4.5cm、口径6.2cmと小ぶりで背が低く、柿の実によく似た姿をしています。

深瀬三本木の「梶尾茶園」

栂尾高山寺「都林泉名勝図会」(秋里籬島著 1799年)

栂尾 高山寺 三尊院「都林泉名勝図会」(秋里籬島著 1799年)※出典:国際日本文化研究センター

明恵は、受け取った茶の種三粒(五粒とも)を「深瀬(ふかいぜ)の三本木」に植えた、と言われています。

栂尾茶濫觴(とがのおちゃのはじまり)、深瀬 三本木

栂尾高橋の北の方に古跡あり、相伝ふ、むかし建仁寺 栄西禅師 入宋して帰朝の時、茶実三粒を将来し、漢の小柿といふ茶器に貯て明恵上人に贈り給ふ。

即ち此地字を深瀬 三本木といふ所に植られ、天下茶園の初とす。其後宇治里にうつし植る。

寺記云

深瀬の園は高山寺の橋より東北の地をいふ、明恵 初て茗実三粒を植給ひし地なり。

因 茲栂尾茶を深瀬三本木茶と称す。此薗今にあり。其茶実 三粒入て 栄西禅師より進ぜられし茶入を、漢小柿といふ、当山第一の器なり。

※出典:都林泉名勝図会(秋里籬島著 1799年)

深瀬三本木は高山寺の対岸(東岸)にあり、栂尾茶は「深瀬三本木茶」とも呼ばれました。三本木の茶園は、現在は残っていません。明恵上人時代の建造物で唯一残っている建物は、禅堂の「石水院」(国宝)です。

「日本最古之茶園」の石碑

現在、高山寺の境内には宇治の茶業協会が管理している茶園があり、「日本最古之茶園」の石碑が立っています。ここはかつて僧房の「十無尽院」が建っていた場所で、大正時代に山に散在していた茶樹をここに集め、現在の栂尾茶園が作られたそうです。

高山寺は度々戦火に遭っており、寺内の大半の伽藍は応仁の乱などで焼失しているため、この茶園が、栄西禅師が中国から持ち帰った茶の系統なのかどうかは分かりません。

毎年5月中旬には茶園で茶摘みが行われ、少量ですが高山寺で販売されています。また、毎年11月8日には、茶祖・明恵上人に新茶を献上する「献茶式」が執り行われています。

黄檗山 萬福寺@京都

黄檗山 萬福寺

明恵上人は、育てたお茶の種を宇治の五ケ庄大和田(現在の宇治市五ケ庄西浦)に播いたと伝えられ、これが宇治茶の栽培の起源です。

「都賀山の 尾上の茶の木 分け植えて あとぞ生うべし 駒の蹄影」

五ケ庄にある黄檗山 萬福寺の門前には、「駒蹄影園址碑」(こまのあしかげえんひ)があります。

石碑には、鎌倉時代の初め頃、宇治の人々が「茶の種を、どのくらいの間隔で蒔けばいいのか」悩んでいた所、明恵上人が馬に乗ったまま畑に乗り入れ、蹄の跡に茶を植えるように教えたという伝説が記されています。

明恵上人は、宇治の他にも、醍醐・葉室(京都)・大和(奈良)、清見(静岡)、武蔵(埼玉)、九州にも茶を植え、各地に茶を広めたと伝えられます。

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