神社の手水舎で、あるいは茶道の点前で、柄杓といえば竹製が一般的だ。
一方、煎茶道では、瓢箪を割って作られた「瓢杓」(ひょうしゃく)と呼ばれる柄杓を用いる(※竹製の柄杓を用いる流派もある)。
なぜ煎茶道では、あえて瓢箪が用いられるのだろうか。
調べていくと、その由来は江戸時代の売茶翁にとどまらず、中国・唐代の「茶経」、西晋の「荈賦」(せんぷ)、さらには「詩経」まで辿ることができることが分かった。一つの茶道具から見えてきた、約二千年にわたる茶文化の流れを紹介する。
売茶翁が愛用した瓢杓

売茶翁が愛用した茶道具が描いた「売茶翁茶器図」には、現在の煎茶道でも使われる瓢杓を見ることができる。
江戸時代、売茶翁をならい瓢杓が広まる

※出典:国書データベース
江戸時代後期の煎茶の手引き書「煎茶早指南」には、瓢箪製の茶道具について以下の記述がある。
瓢箪茶焙(ひさごのちゃほうじ)
高翁、ひさごを用いて、ひしゃくを作り用いられしゆえ、
今煎茶家に是を得て、ひしゃくにせんとあらそいもとむ。
※煎茶早指南(国文学研究資料館所蔵) ※出典: 国書データベース
現代語にすると、「売茶翁が瓢箪で柄杓を作って用いたため、当時の煎茶人たちは、瓢箪を手に入れて柄杓にしようと競い求めた」という意味になる。この記述から、江戸時代にはすでに「売茶翁にならう茶道具」として瓢杓が広く認識されていたことが分かる。
では、売茶翁はなぜ瓢箪を用いたのか。
売茶翁の茶器図や煎茶器の図録、江戸時代の煎茶書に瓢杓は登場するものの、その由来を詳しく説明したものはほとんど見当たらない。そこで、中国の古典へと遡ってみることにした。
「茶経」に見る茶器「瓢」

茶文化を語るうえで欠かせないのが、唐代の陸羽が著した「茶経」だ。
「茶経」は現存する世界最古の茶の専門書であり、茶樹の栽培から製茶、茶器、煎茶法、水の選び方までを体系的にまとめた名著。後世の中国茶文化だけでなく、日本の煎茶文化にも大きな影響を与えた。
茶器を詳しく論じた「四之器」の「瓢」の章では、陸羽いわく、茶を酌む杓として、瓢箪製のものと木製のものが説明されている。さらに陸羽は、西晋の杜育「荈賦」を引用し、「茶を酌むには瓢箪を用いる」と説明している。
瓢
瓢一曰犧、杓、剖瓠為之、或刊木為之。
晉舍人杜毓荈賦云、酌之以瓠。
瓠、瓢也、口闊、脛薄、柄短。
永嘉中、余姚人虞洪入瀑布山采茗、遇一道士云、「吾、丹丘子、祈子他日甌犧之余、乞相遺也」。
犧、木杓也。今常用以梨木為之。※茶経「四之器」※出典:国立公文書館デジタルアーカイブ
※中国では、瓢箪は「匏」「瓠」「瓢」など複数の漢字で表される。文脈によって使い分けられるが、いずれも瓢箪を指す。
- 瓢(杓)=瓢箪を割って作る杓。口が広く、柄に近い部分は薄く、柄が短い。
- 犧 =木を削って作る杓。陸羽の時代には梨の木製が一般的だった
つまり唐代には、瓢箪製・木製の両方の杓が使われていたことがわかる。陸羽は、300年以上前に書かれた「荈賦」の記述を引きながら、瓢箪製の杓が古くから茶道具として用いられていたことを示したのだろう。
「荈賦」に現れる「匏」(瓢箪)。「詩経」から受け継いだ礼法

※出典:国立公文書館デジタルアーカイブ
「荈賦」は、西晋の文人・杜育によって3世紀末頃に書かれた、中国最古級の茶文学だ。
原本は現存せず、後世の類書「芸文類聚」への引用という形で伝わっている。「茶経」が「荈賦」を引用していることからも、唐代以前から広く知られた作品だったのだろう。
「荈賦」は茶樹の生育から採茶、水、茶器、喫茶の様子までが美しい文章で書かれている。その中に次の一節がある。
酌之以匏,取式公劉 瓢で茶を酌み、その作法は古の公劉にならう
周王朝の祖先「公劉」
公劉は、周王朝の祖先とされる人物である。
「詩経・大雅」に収められた「公劉」は彼の人徳や治世を称える詩だ。故郷を追われた一族を率いて新天地に移り住み、土地を測り、倉を建て、民の暮らしを立て直していく公劉の姿が、六章にわたって丁寧に描かれている。公劉が築いたこの基盤が、幾世代も経て、後の文王、そして商(殷)を滅ぼし、周王朝を開く武王へとつながった。
詩の中盤、新たな地に落ち着いた民を集めてもてなす祝宴の場面に、次の一節がある。
執豕于牢、酌之用匏 豚を屠り、瓢箪で酒を酌む
食事や酒でもてなされた民が、公劉を指導者として慕い仰いだことも、続けて記されている。瓢を用いて酒を酌む所作は、単なる酒宴の一コマではなく、公劉の人徳とそれを慕う民の姿を象徴する場面として描かれているのだ。
杜育は、「詩経」の公劉の徳を称える場面を踏まえながら、「荈賦」で「瓢で茶を酌み、その作法は公劉にならう」と表現した。瓢を使うという行為だけでなく、公劉のように客をもてなす真心までも、茶を酌む所作に重ね合わせていたのかもしれない。
瓢杓が語る二千年の茶文化

ここまで見てきた流れを整理すると、
詩経:公劉の酒礼
↓
荈賦:茶礼へ応用
↓
茶経:引用・体系化
↓
売茶翁:煎茶文化へ継承
↓
同時代の煎茶人:認知拡大
↓
現代の煎茶道
という、一つの系譜が見えてくる。
売茶翁は、中国の文人文化に強い憧れを抱き、茶を単なる飲み物ではなく、人との交流や精神修養の場として大切にした。そのため、茶器にも中国古典とのつながりを意識していた可能性がある。もちろん、売茶翁が「茶経」「荈賦」や「詩経」を踏まえて瓢杓を採用したことを直接示す史料は、現在のところ確認されていない。
ただし、売茶翁が「茶経」を深く意識していたことは、著書の「梅山種茶譜略」や周囲の知識人との交流からもうかがえる。また、親交のあった相国寺の僧・大典顕常は、「茶経」の注釈書「茶経詳説」も執筆している。
なぜ売茶翁は、瓢杓を煎茶道具として用いたのか

ただ、「茶経」だけを出典とするならば、瓢杓でも木杓でも、どちらでも構わないように思う。売茶翁がわざわざ瓢箪を自分で割り、瓢杓を作る理由としては個人的には弱く感じる。
それに正直、瓢杓は扱いが難しい。慎重に扱わないと、たやすく水がこぼれてしまう。稽古中、よく手前盆に水をこぼしたものだ。当時の手に入りやすさと実用性を重視するのであれば、木杓を選ぶのではないだろうか。
ここからは史料を離れた想像だが、一つの可能性として考えられるのは、「瓢で酒を酌む作法は公劉にならう」といういわれを、売茶翁も知っていたからではないだろうか。
同時代の茶人がこぞって瓢杓を求めたというのも、その逸話を聞いてなら、うなずける(中には売茶翁が使っているから、という理由だけの人もいたかもしれないが)。
見慣れぬ道具に、つい問えば、想像を超える深い答えが返ってくる。胸を打たれるのは人間の自然な心の動きだ。同じものを求めてもおかしくない。瓢杓は茶道具である以上に、古典や歴史を語る道具でもあったのかもしれない。
おわりに

茶席や稽古で何気なく手にする瓢杓。その歴史をたどると、気づけば二千年以上にわたる思索の旅となった。
今度手に取るときは、その軽さの向こうに、売茶翁、そして陸羽や杜育、さらには遠い昔の公劉の姿までもが重なって見えてくるかもしれない。
道具の由来を知ることは、単なる知識の獲得ではない。使い手として、その道具にどう向き合うかという構えそのものを、静かに変えてくれる。