今年もまた、酷暑を告げる言葉がニュースを賑わせている。
うだるような暑さを前に、ちらと涼を求めて、雪国の暮らしを記した古書「北越雪譜(ほくえつせっぷ)」を読んでいたら、思いがけない記載を見つけた。
『北越雪譜』とは—江戸時代の雪国の暮らしを伝える書

「北越雪譜」は、雪に関する随筆集。豪雪地帯である越後(現在の新潟県塩沢近辺)の暮らしを書き記したもの。
越後塩沢の商人・鈴木牧之が編撰し、戯作者・山東京山(本名・岩瀬百樹)が刪定(整理・校訂)を手掛けた。山東京山は、大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で俳優の古川雄大さんが演じていた山東京伝の弟である。兄弟ともに江戸期の作家として活躍した。。
雪国の暮らしを、雪掘り、雪崩、氷室、動植物の様子まで細やかに書き記していて、読み物としてとても面白い。青空文庫でも読むことができるが、挿絵がまたいいので、個人的には紙の書籍を手に取ることをおすすめしたい。
今回参照したのは、昭和45年(1970)に初版発行された校注版(野島出版、監修:宮英二、校注:井上慶隆・高橋実)である。初編と二編が1冊にまとまっており、300ページを超える。表紙は、書物内で紹介されている雪の結晶(「雪花図説」を一部書き写したもの)。江戸時代、既に顕微鏡で雪の結晶の形が知られていたのには驚きだ。この本は冒頭の凡例に「挿絵は手抜きのない初刷による」という説明があり、挿絵も細部までくっきり見える。
尚、新潟県南魚沼市にある「鈴木牧之記念館」では、「北越雪譜」の初版本を展示しているそうだ。
「削氷」(けづりひ)の章—天保8年、越後の茶店にて

この「北越雪譜 二編」一の巻に「削氷(けづりひ)」と題する章があり、そこに気になる記載があった。
まず断っておくと、この章を語っているのは牧之ではなく、刪定者の山東京山である。京山曰く、丁酉の年、つまり天保8年(1837年)の晩夏、息子の京水を伴って北越を旅した折のことだという。
三国嶺(みくにとうげ)を越えたのが1837年6月15日のこと。そこから浅貝、三俣と山駅を辿り、芝原嶺を下って湯沢へ向かう道すがら、一軒の茶店を遠目に見つける。
六月に氷をみる事江戸の目には最珍しければ立よりて熟視ば、深さ五寸計の箱に水をいれその中に小き踏石ほどの雪の氷をおきけり。
売茶翁に問ば、これは山蔭の谷にあるなり、めしたまはゞすゝめんといふ。さらばとて乞ひければ翁菜刀を把、のなかへさら/\と音して削りいれ、豆の粉をかけていだせり。
氷に黄な粉をかけたるは江戸の目には見も慣ず可笑ければ、京水と相目して笑をしのびつゝ、是は価をとらすべし、今ひとさらづゝ豆の粉をかけざるをとて、両掛に用意したる沙糖をかけたる削氷に、歯もうくばかり暑をわすれたるは珍しき事いはんかたなし。
※出典:「北越雪譜」二編、削氷
売茶翁にかき氷を振る舞われる

現代語に直すとこうなる。
6月に氷を見るのは江戸では非常に珍しく、近寄ってよく見てみると、深さ五寸(約15cm)ほどの箱に水を張り、その中に踏み石ほどの大きさの雪の氷を浮かべてあった。売茶翁(茶を売る老人)に尋ねると、
「これは山陰の谷にあるものです。召し上がるならお出ししましょう」と言う。所望すると、老人は菜切り包丁を手に取り、さらさらと音を立てて皿へ削り入れ、きな粉をかけて差し出した。
氷にきな粉をかけるのは江戸では見慣れぬ趣向で、京山と京水は思わず顔を見合わせて笑いをこらえたそうだ。親子で微笑ましい光景である。これは代金を払うべきだと思い直し、もう一皿はきな粉を抜いて、旅の荷物に用意していた砂糖をかけてもらった。歯が浮くほどの冷たさに暑さを忘れたのは、なんとも珍しいことだった、と締めくくられている。
江戸時代、売茶翁は固有名詞にあらず
最初に読んでいて驚いたのは、「売茶翁」という言葉が目に飛び込んできたことだった。
茶・煎茶道の世界で「売茶翁(ばいさおう)」といえば、固有名詞としてただ一人を指す。肥前に生まれ、京都で天秤棒に茶道具を担いで煎茶を売り歩いた奇僧・高遊外(こうゆうがい、1675〜1763)その人である。宝暦13年(1763)にその生涯を閉じるまで、身分を問わず誰にでも茶を振る舞ったその姿は、後世の茶人たちの理想として語り継がれてきた。
ところが「北越雪譜」の「削氷」の章に出てくる「売茶翁」は、高遊外とは何の関係もない。
越後の山中の茶店で氷やきな粉を商っていた、名も知れぬ茶売りの老人である。高遊外が没してから70年以上、場所も京都からは遠く離れた越後の山中。両者が同一人物でないことは、時代からも地理からも明らかだ。
ふりがなも「ちゃをうるおきな」と振られていて、特定の人物ではなく「茶を売る老人」を指す普通名詞だ。江戸時代において「売茶翁」という言葉は、茶を商う老人を指す言葉としてごく普通に使われていたのだろう。
終わりに
煎茶の文脈にどっぷり浸かっていると、「売茶翁」という言葉を見ただけで、あの高遊外を思い浮かべてしまう。思い込みというのは恐ろしいもので、知らず知らず色眼鏡をかけて古い文献を読んでいたのだろう。
現代の感覚や、自分の専門分野の知識だけで古い文献を読むと、思わぬ読み違いをしてしまう。今回のことで、改めて原典に当たって確認することや、その時代の常識や通念の大切さを実感した。

余談だが、「削氷」の章にはもう一つ、心に残る一節がある。
京山が塩沢の牧之老人の家に滞在していると、日毎に「氷々(こおりこおり)」と呼び売りする老婆がやって来て、掌ほどの氷を三銭で売っていたという。はじめは物珍しさに何度か買い求めたが、次第に氷とも思わなくなった、と京山は書く。
およそ物の得がたきは珍らしく、得易きはめづらしからざるは人情の恒なり。
※出典:「北越雪譜」二編、削氷
得難いものは珍しく、たやすく手に入るものは珍しくない。それが人の情けの常なのだそうだ。吉野の人は吉野の桜を、松島の人は松島の月を、特別なものとは思わないだろう——と京山は続ける。
珍しさというのは、案外そのものの価値ではなく、出会う側との距離で決まるのかもしれない。江戸から来た旅人には珍しい削り氷も、越後の山里ではありふれた夏の涼みだった。同じように、「売茶翁」という言葉もまた、茶人には特別な固有名詞でも、越後の街道筋では茶売りの翁というありふれた姿だったのだろう。
