売茶翁の京都・洛中での売茶翁の足跡を辿ります。
相国寺住持の大典和尚は売茶翁の朋友であり、その足跡を「夫れ大仏燕子の池、東福紅葉の澗 及び西山 糺林の佳勝 皆時に出て之を舗ぶる所也」と「売茶翁傳」に書き記しています。
- 売茶翁の足跡を辿る|京都編(洛南)
- 売茶翁の足跡を辿る|京都編(洛北)
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- 売茶翁の足跡を辿る|京都編(洛中)
相国寺@上京区

相国寺(出典:京都写真)
「砂鼎 波に翻す 無味の茗」(相国寺 煮茶)
「楓林 友を招いて坐せしむ 茗飲 渇心休す」(遊相国寺 楓下煮茶)
無味とは世俗を超越していること、「茗」はお茶のこと。相国寺で茶を淹れた詩が2首、読まれています。

相国寺「都名所図会」(出典:国際日本文化研究センター)
萬年山 相国承天禅寺は今出川の北にあり。五山の第二にして、開基は夢窓国師、二世は妙葩、後小松院の御宇明徳三年、足利三代の将軍義満公の建立なり。
仏殿には釈迦仏を安置し、迦葉阿難を左右にし、達磨大元の像を脇壇に安ず。祖師堂には夢窓国師の像あり、後水尾院の御再建にして、同帝の神牌を安置す。三重塔は大日如来を本尊とし これも後水尾院の御再建なり。
※出典:都名所図会(秋里籬島 著、1780年)

相国寺の開山堂庭園の紅葉
売茶翁が身を寄せた「林光院」
1744年(70才)、売茶翁は相国寺の子院の林光院に移住し、10年間この地に住みました。友の大典和尚(1719‐1801年)が林光院の住持を兼務していたため、大典を頼って身を寄せたのかもしれません。
林光院は、元は紀貫之邸宅跡にあり、何度かの移転の後、相国寺の境内に移されました。その後、明治時代に荒廃し、1874年に廃寺となっています。現在の林光院は、大正時代に再興&移築されたものです。
- 林光院(相国寺)
色変わりの名梅「鶯宿梅」
林光院の庭園には、名木「鶯宿梅(おうしゅくばい)」という色変わりの梅があります。真紅のつぼみから花が開くと、淡紅色に変わり、最後は純白となります。
林光院の移転と共に移植され、枯死を乗り越えて「接ぎ木」により現在に伝えられています。
- 林光寺の鶯宿梅(相国寺)
西雲寺@上京区
「路傍 茗を煮て 瓦炉薫ず」(北野西雲寺 煮茶)
「竹爐 携え去きて 清泉を煮る」(過西雲寺 煎茶賦呈主盟上人)
北野天満宮の南にある西雲寺のほとりで、西雲寺の住持や客人に茶を振舞い、詩を二首残しています。
- 天台宗 西雲寺 ※通常、非公開
売茶翁が持ち運んだ瓦炉
「売茶翁茶器図」には、詩の中で出てくる瓦炉(=瓦盧)の図が描かれています。

売茶翁が湯を沸かす時に使用した「瓦盧」(売茶翁茶器図)
三条大橋@中京区

三条大橋からの眺め(鴨川)
「三條橋畔の売茶老 又 通天に向いて澗泉を煮る」(通天橋鬻茶)
「売茶翁偈語」では、鴨川のほとりや東福寺・通天橋で茶を煮た詩が、数多く残されています。この通天橋の茶詩からは、売茶翁は三条大橋の付近で茶を売っていたことが分かります。
三条大橋は江戸と京都を結ぶ「東海道五十三次」の終着点で、江戸の絵師・歌川広重(1797-1858)が浮世絵に描いたことでも有名です。
橋の西側には、江戸時代に出版された「東海道中膝栗毛」(十返舎一九)の主役、弥次さん喜多さんの銅像があります。
- 三条大橋 (京都観光Navi)
- 東海道五十三次之内 京師 三条大橋(歌川広重)

三条大橋の南西橋詰にある、弥次さん喜多さんの銅像
江戸時代の三条大橋

三条大橋「都名所図会」(出典:国際日本文化研究センター)
江戸時代の名所案内「都名所図会」を見ると、往来の多いにぎやかな橋であったことが分かります。
三条橋は東国より平安城に至る喉口なり、貴賎の行人常に多くして、皇州の繁花は此橋上に見えたり、欄干には紫銅の擬宝珠十八本ありて、悉銘を刻。
※出典: 都名所図会(秋里籬島 著、1780年)
現在の三条大橋は、昭和25年(1950年)に再建されたものですが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が大改修した時の「銘入り擬宝珠(ぎぼし)」が、今も欄干に利用されています。
- 三条大橋の駒札(京都観光Navi)

三条大橋の欄干の擬宝珠。天正と昭和の時代のものが混在している。